児童読物作家として数々の名作を生み、現在町田市民文学館ことばらんどで展示会を開催している 山中 恒さん 藤沢市在住 84歳
今の子どもたちに伝えたい
○…町田で生まれた『あばれはっちゃく』。1970年、原町田で暮らしていた当時、新聞の子ども版に連載。「編集担当と子どもの頃の経験談で盛り上がったんだ。それで、よし”ガキ”の話にしよう、と」。短期の予定が、評判を呼び、6年の長期連載に。後にテレビドラマや映画に映像化され、一躍その名を知らしめた。「あばれはっちゃく」は、茨城から出稼ぎに来ていたおばちゃんが使っていた言葉で、「面白いからいただいたんだ」と振り返る。
○…早稲田大学の「早大童話会」で、志を同じくする若者と出会い切磋琢磨するも、当時の児童文学のテーマ主義や課題図書に違和を感じ、一線を引いていく。「もっと自由でいいじゃないか」。子ども目線の「めちゃくちゃ」が読者に受けた。以来、児童文学作家ではなく「児童読物作家」と自称している。『おれがあいつであいつがおれで』も男女の性をテーマにしていたため、PTAなどの評判が悪かった。それを大林宣彦監督が『転校生』として映画化すると、評価がガラッと変わった。「やれ破廉恥だのなんだのさんざん言われたのに」と苦笑する。
○…作詞家の一面も。「あばれはっちゃく・ドラマ版」の挿入歌などを作詞。また、新幹線が誕生したころにNHK「うたのえほん」で歌われた「はしれちょうとっきゅう」も人気を博した。「”ビュワーン”という擬音が新幹線のスピード感や機械的な部分を言い得ていると評判でね。でも今は『時速300Km』だもんな。もう歌えないよ」とぼやく。
○…満州事変の年に生まれ、戦時中に徹底した軍事教育を受けた。「敗戦時には自決を決意したほど」の『優等生』は、戦中と戦後で大きく教育内容が変わったことで「大人が信用できなくなった」。後に2万冊集めた戦時中の貴重な文献などから研究を重ね、史実を分かりやすく伝承する。「これが今の僕の使命なんだ。本当はもっとバカらしいお話を作りたいんだけどね」
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