町田市立博物館より㉗ 小舟の水〜ミャンマー〜 学芸員 矢島律子
現在開催中の「黄金の地と南の海から」展には十数年ぶりにミャンマー陶磁が10点以上並んでいますが、実はその研究は30年位前に始まったばかりです。1984〜5年頃にタイ・バンコクの市場に忽然と白釉緑彩陶が出現し、謎の焼きものとして話題になりました。それらはタイとミャンマーの国境近くの丘陵地帯からそこに住む少数民族によって掘り出されました。しかし民族紛争のある危険地帯で、タイ政府も近づけず、その時は正式な調査は行われませんでした。そのうちに市場から全く姿を消し、代わりに大量の偽物が出回ったため、存在そのものの捏造・偽物説までささやかれました。
展示中のミャンマー陶磁は山田義雄氏がそのころ収集したものです。本物の持つおっとりとした釉調や丁寧に作り上げられたゆえの品格は真似ができるものではなく、見ればすぐに真贋が判るにも関わらず、存在そのものを否定する説さえあることに筆者は憤りを感じていました。そこで1997年に東洋陶磁研究の第一人者であるH先生、N先生、その頃新進研究者だったT氏とともに、ミャンマー陶磁を探りに彼の国へ出掛けました。
マンダレーではお坊さんの暴動が起こりホテルに缶詰になったり、暴走する牛車やタクシーに乗って顎が外れそうになったりと、調査はちょっとした冒険旅行でしたが、仏教が浸透したお国柄で人々の心がゆったりと整っており、全てが美しく気持ちのよい旅でした。
痕跡を探しに
ヤンゴンからバゴーに行く途中にラグンビーという、広い濠に囲まれた古い集落がありました。青磁の窯が残っているとのオーストラリア人研究者の簡単な報告文をもとに、現地の女性ガイドとH先生、N先生とともに訪れました。T氏はタイでビザ申請に手間取ってまだ来ておらず、筆者が実働部隊でしたが、古い時代に陶磁器を焼いていたことなど当時のミャンマーの人々は全く知らなかったので、こちらの要望をガイドさんにも村の人たちにも伝えるのが苦労でした。ぐるぐる集落の中を回った結果、濠の中に浮かんで見える白い鳥の形をしたストゥーパがくだんの青磁窯らしいということになりました。
えっ、コップで…
「なぜストゥーパ?」という疑問は置いておき、村の若者に頼んで小さな木舟を出してもらいました。筆者たち4人が乗るとぎゅうぎゅうな上、なぜか連れて行かれた先がレンガ職人の家。東南アジアでは怒ることが相手への最大の侮辱と知っていても、思わず語気が荒くなりかけたとき、筆者の足元が濡れていることに気がつきました。小舟に穴が空いていて水がしみてきたのです。ぎょっとする私を見てガイドが漕ぎ手に何か言うと、彼はプラスチックのコップをいくつか取り出してきました。「え、それでいいの?」と首をかしげ、この舟の状態が緊迫しているのかどうか読めないまま、水を掻き出しながら舟行続行。白鳥ストゥーパに近づこうとしましたが、乾季の終わりで水量が中途半端なため思うように進まず、葦に阻まれ周りがよく見えません。「この機会を逃したら」とあせる私にN先生が静かに掛けて下さった「そろそろ潮時じゃないかしら」の声で、「しまった。大先生2人に何かあったら大変だ」と我に返り、小船が沈む前に陸に戻ることができました。その後、僧院の裏の畑に青磁片やら融けた窯壁片が落ちているのを発見し、ラグンビーの青磁生産を確認しました。
後から考えると、バゴーに昔あったペグー王国は別名ハムサワディー(白い聖鳥)王国と呼ばれており、またミャンマーの陶窯は卵形の胴の先端からするりと長い煙突が伸びていて白鳥の姿に似ているのです。それで、ラグンビーの人たちは青磁の窯とは知らず、それを白い漆喰で覆って尊んでいたのでした。血迷った筆者を静かに見守っていた先生方。思い出す度、青くなり、赤くなります。
調査は進み
最終日に訪れたヤンゴン近郊の村トゥワンテの川岸で、白釉緑彩碗の破片が様々な陶器片とともに埋まっているのを発見し、白釉緑彩陶がまぎれもなく古陶であることを確信することもできました。
その後、T氏はミャンマーに度々渡り、地元研究者と日本人研究者も加わって調査が進展しました。数年前にとうとう、白釉緑彩陶を焼いた窯がモウルミャインの近郊で発見されました。今夏には奈良文化財研究所とヤンゴン大学の研究者が調査の参考のために本展を見にいらっしゃいます。
「百聞は一見にしかず」と「引き際が肝心」、この二つを肝に銘じた思い出です。
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宮司の徒然 其の137町田天満宮 宮司 池田泉12月21日 |
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宮司の徒然 其の135町田天満宮 宮司 池田泉11月30日 |