八王子版 掲載号:2015年7月23日号

戦後70年

八王子空襲 10人の記憶 社会

迫るB29 体験者にきく

八王子空襲後の市街地写真。1945年10月、斉藤五郎氏が八日町で撮影。中央の道路は甲州街道。八王子市郷土資料館蔵
八王子空襲後の市街地写真。1945年10月、斉藤五郎氏が八日町で撮影。中央の道路は甲州街道。八王子市郷土資料館蔵

「負けないと思っていた」

大野彰さん

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1939年3月15日生まれ(空襲当時6歳)、小比企町在住、高尾登山電鉄(株)代表取締役社長

 学校帰りに米軍機に遭遇し、小麦畑に隠れることもあった。夜になると空襲警報が鳴り響き、電気を消して暗い中でじっと過ごした。

 空襲では「防空壕の前にあった家は燃え、防空壕の上にも焼夷弾が落ちたようで、土が崩れてくる音がした。おそろしかった」。家に戻ると母屋も物置も全部燃えていたという。母が、消失した家の前で茫然と泣いていた姿を今でもはっきり覚えている。「日本は負けないと思っていた。頭の上に爆弾が落ちてきても『戦争とはそういうものだ』とも」。しかし終戦を知り、これで空襲はなくなると安堵した。

ずっと続く花火のよう

橋本孝さん

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1934年8月3日生まれ(当時10歳)、東浅川町在住、(株)荒井呉服店常務取締役

 7月中ごろ、ゼロ戦がB29を撃墜したところを目撃し、手を叩いて喜んだ。小学校では先生が月に一度くらい質問をする。「将来何になりたい?」。男子全員が「陸軍大将」と答えていた。

 8月1日、母親はあるだけの米を炊き大量のおにぎりを作った。そして乳母車を押し、横川町へ逃げた。桑畑の中に布団を敷き隠れていた。恐ろしかったが、こっそり見てみた。「切れ目のない花火のよう」。キレイで驚いた。3日後、実家のある八日町へ。陣馬街道を歩く途中、追分町の交差点から先は何もなくなっていた。自宅もなくなっていた。

「あれ、雨が降ってきた」

吉本良久さん

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1934年6月13日生まれ(当時11歳)、大和田町在住、吉本商事(株)取締役会長

 目に映ったのは、自身の1m上空ぐらいまで近づいてきていたB29の姿。「あれ、雨が降ってきた」。防空頭巾に何かが降りかかった。油だった。そう気づくと同時に、周囲が火の海と化していた。「布団をかぶって逃げる人が多かった。焼夷弾を避けるためにみんな空を見ながら避難したよ」。昼間のように明るかったことが脳裏に焼き付いている。

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 吉本さんは数年前まで市内の小学校などで戦時の様子を話していた。「悲しい経験を伝えていく義務が私たち世代にはある。二度とあってはならないことだよ」

「感覚が麻痺していた」

安達恭夫さん

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1936年8月9日生まれ(当時8歳)、叶谷町在住

 「同窓会ではいつもこの時の話が出るんですよ」。空襲の際は、犬目町の母親の実家に避難していた。「本当に怖かった。B29が近くまでやってきているのは分かっていたが、両親は『危ないから見ては駄目』だと。耳だけを澄ましていた。ゴツゴツというB29が低空を飛ぶ爆音は今も忘れられない」。防空壕には前月生まれたばかりの生後間もない弟もいたが、全員無事だった。「母親は出産間もない身体で私たちを見てくれていた。今思うと大変だったと思う。この時は幼かったということもあるが、戦争によって感覚が麻痺していたのかもしれない」

列車銃撃に居合わせる

石井竹雄さん

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1931年2月5日生まれ(当時14歳)、寺田町在住

 8月5日午前11時ごろ浅川駅(現・高尾駅)から乗車。列車が発車したのは空襲警報のさなか。「山間部ならば大丈夫」と思っていたが、トンネルの手前でP51の機銃掃射が始り、バリバリという音が聞こえた(いのはなトンネル列車銃撃)。空気が銃弾のスピードで冷やされるためか、霧が発生しそれが窓から入ってきた。あちらこちらからうめき声が聞こえた。飛び降りて逃げる人もいたが、P51はそれを狙い撃ちした。自身も山に逃げ込んだ。後から聞いた話では、自身が乗っていた3両目だけは銃弾が当たっていなかったという。「運以外の何物でもない」

熱い路面、血のにおい

瀬沼和重さん

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1927年1月21日生まれ(当時18歳)、館町在住

 警視庁消防手(当時)となり、実家の元八王子の近くの八王子消防署に勤務。空襲の際は派遣隊として日野重工の消火を担当した。夜が明けて甲州街道を進み大和田の坂の上から見下ろすと追分町から千人町まで焼野原で何も残っていない。熱い路面と垂れ下がる電線で歩くのも困難だった。

 列車銃撃(5日)の被害者を診療所に運ぶ手伝いもした。処置しきれずに次から次へと患者が息を引き取っていく。血のにおいで生き地獄のよう。ある軍人は大けがをしながらも威勢よく大声で軍歌を歌っていた。が、他の搬送作業をして戻ったときには息絶えていた。

「綺麗で見入った」

吉澤恒雄さん

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1934年8月11日生まれ(当時10歳)、廿里町在住

 空襲を知らせるサイレンで跳ね起きた。「どこに避難するのが安全か分からない」と家族全員で自宅に待機していた。警戒警報解除の知らせはあったが、一時も安心できず、常に緊張状態でいた。そして外に出ると上空に黒影が。地上に接近したB29の機体の一部だった。周囲は一瞬で昼間のように明るくなった。「幼かったので、それを綺麗だなと見入ってしまった」。翌朝気付くと足に激痛。焼夷弾が当たっていたのだ。「今でも少し傷痕が残っている」

悲しすぎる通知

井出フク子さん

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1931年3月11日生まれ(当時14歳)、西浅川町在住

 母と2人で下宿を営んでいた当時、部屋を借りていた人の中にも戦地に行く人が大勢いた。「戦死の通知が届くと、悲しくて泣いてしまった。みんな兄のように自分をかわいがってくれていたので」。空襲の際は母親にたたき起こされ、気が付くと周りは火の海だった。川崎の空襲で焼け出されて一緒に暮らしていた従妹と近くの川の岩とケヤキの木の下に隠れた。従妹は体験から焼夷弾による火を砂で消す方法を知っていた。

 空襲が終わって帰ると自宅の2階の屋根が焼け落ちるところだった。今でもはっきり覚えている。母親と再会し、互いに涙を流した。

隣りの家では赤ん坊が

新藤紅示さん

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1929年9月29日生まれ(当時15歳)、初沢町在住

 6月に2、3機の艦載機に襲われたのを覚えている。「東の空の山の下からひょっと現れた。かなりの低空飛行。当時は敵機に向けて指を立てて、その指から飛行機がそれれば進路から外れているから安全ということは聞いていた」。お茶の木の株に隠れて難を逃れた。空襲では家が焼け、一家は無一文になった。「明日からどうしたらいいだろう」と途方に暮れた。隣りの家では赤ん坊2人が亡くなっていた。

 戦後、通った学校の同級生には色々な年代の人がいた。中には特攻に行く前日に終戦を迎えた人もいた。

果たせなかった約束

長澤行雄さん

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1923年3月18日生まれ(当時22歳)、東浅川町在住

 学徒出陣でパイロットとして台湾へ訓練に行き搭乗したのは九七式艦上攻撃機。基地が沖縄上陸戦よりも早い段階で爆撃を受けて機能しなくなり、日本の百里基地に転属。「そのころには、(艦上機なので)我々が乗るべき空母がなくなっており、特攻しかなかった」。1期上の先輩たちはもっとも特攻が多かった世代で、次々と亡くなっていった。大学の先輩も。「その人は母親1人、子1人の家庭。母は航空隊の近くに疎開してきていた。出撃の朝も門の中までは入れてもらえず、門の前でわが子を見送った」。同期の中でも特攻に出た人がいた。「俺も後から行くから」。そう約束したが果たせなかった。
 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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