神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
多摩版 公開:2015年8月6日 エリアトップへ

玉音放送「まさかの反面、ほっとした」 田中登さん(87)=山王下在住=

社会

公開:2015年8月6日

  • LINE
  • hatena

 大東亜戦争が始まった当時、田中さんは多摩村立尋常高等学校本校(現市役所の場所)に通う高等課1年生だった。当時、多摩村には本校の他に、第一分校(豊ヶ丘)、第二分校(和田)の3校があり、4年生になると全員が本校に通い、男女別のクラスでそれぞれが50人ほどいたという。

 1941年(昭和16年)12月8日。「朝、友達と一緒に登校するときに万歳したんだよ」。真珠湾攻撃が成功した話を聞いたからだ。「今思うとおかしいけど洗脳されていたんだよね」。その後、戦争が拡大していくと、学校で少年団を組織し、田中さんは第2中隊第2小隊長になり、分列行進を繰り返していたという。

 1943年(昭和18年)、田中さんは青年学校に進級。戦局が悪化し始め、学校にも影響がでていた。先生が教室からいなくなり、授業も明治時代の教育勅語を書き写す形になったという。沖縄戦が始まると、米軍の爆撃機B29の姿を毎日見かけるように。日野にあった高射砲がB29を狙うがまったくあたらない。「ある日、三本松(山王下)に見に行った。不謹慎だけど曳光弾が綺麗でね」。高射砲の弾が破裂し、破片が周囲に落ちてきた時もあった。「音がすごくて怖かった」と振り返る。

 1945年(昭和20年)2月17日。大松台(鶴牧)に田中さんの父親が近隣の人たちと買った山があり、薪炭林を切っていた。すると頭上では米軍の戦闘機と零戦が空中戦に。薬莢が大量に落ちてきた。零戦が撃墜され、上由木(八王子市)に墜落した。

 広島に原爆が落とされた数日後、関戸橋近くの多摩川に行った時、河原に大量のビラが落ちていた。それは米軍機が巻いたもので『近々東京に新型爆弾を落とす。天皇陛下に降伏するよう進言しろ。出来なければ東京より退去しろ』などと書かれていたという。「それまでは神風が吹くから負けないと思っていたが、この時に戦争に負けると思った」と当時の心境を語る。

 そして迎えた8月15日。玉音放送を聞いた。「まさかと思う反面、ほっとした」。当時「米軍に占領されると殺される」と流言があったため、青年クラブでお別れ会を企画し、残っていた砂糖を使ってお汁粉を食べた。戦後は食糧難で苦しい生活が続いた。米軍から放出物資の配給があり、乞田まで受け取りに行った。その時に食べたベーコンの缶詰の美味しさは、今でも忘れられない記憶だという。

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

タウンニュースの各発行エリアで企画・編集した関連記事まとめ

http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

多摩版のローカルニュース最新6

新団長に城所氏

多摩市消防団

新団長に城所氏

4月17日

「ダンボちゃん」を学ぶ

「ダンボちゃん」を学ぶ

ベルブ永山

4月16日

浪江との思い出 展示

桜ヶ丘商連

浪江との思い出 展示

ふるさとなみえ博物館

4月15日

「こども誰でも」多摩市先行

「こども誰でも」多摩市先行

市内4園で試行的に

4月11日

全国教育美術展で7人が入賞

和田の緑ケ丘幼稚園

全国教育美術展で7人が入賞

卒園式などで表彰

4月11日

「卵子凍結」助成を継続

東京都

「卵子凍結」助成を継続

昨秋、開始 28年度までに

4月11日

あっとほーむデスク

  • 5月11日0:00更新

  • 4月27日0:00更新

  • 4月13日0:00更新

多摩版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年4月17日号

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook