大東亜戦争が始まった当時、田中さんは多摩村立尋常高等学校本校(現市役所の場所)に通う高等課1年生だった。当時、多摩村には本校の他に、第一分校(豊ヶ丘)、第二分校(和田)の3校があり、4年生になると全員が本校に通い、男女別のクラスでそれぞれが50人ほどいたという。
1941年(昭和16年)12月8日。「朝、友達と一緒に登校するときに万歳したんだよ」。真珠湾攻撃が成功した話を聞いたからだ。「今思うとおかしいけど洗脳されていたんだよね」。その後、戦争が拡大していくと、学校で少年団を組織し、田中さんは第2中隊第2小隊長になり、分列行進を繰り返していたという。
1943年(昭和18年)、田中さんは青年学校に進級。戦局が悪化し始め、学校にも影響がでていた。先生が教室からいなくなり、授業も明治時代の教育勅語を書き写す形になったという。沖縄戦が始まると、米軍の爆撃機B29の姿を毎日見かけるように。日野にあった高射砲がB29を狙うがまったくあたらない。「ある日、三本松(山王下)に見に行った。不謹慎だけど曳光弾が綺麗でね」。高射砲の弾が破裂し、破片が周囲に落ちてきた時もあった。「音がすごくて怖かった」と振り返る。
1945年(昭和20年)2月17日。大松台(鶴牧)に田中さんの父親が近隣の人たちと買った山があり、薪炭林を切っていた。すると頭上では米軍の戦闘機と零戦が空中戦に。薬莢が大量に落ちてきた。零戦が撃墜され、上由木(八王子市)に墜落した。
広島に原爆が落とされた数日後、関戸橋近くの多摩川に行った時、河原に大量のビラが落ちていた。それは米軍機が巻いたもので『近々東京に新型爆弾を落とす。天皇陛下に降伏するよう進言しろ。出来なければ東京より退去しろ』などと書かれていたという。「それまでは神風が吹くから負けないと思っていたが、この時に戦争に負けると思った」と当時の心境を語る。
そして迎えた8月15日。玉音放送を聞いた。「まさかと思う反面、ほっとした」。当時「米軍に占領されると殺される」と流言があったため、青年クラブでお別れ会を企画し、残っていた砂糖を使ってお汁粉を食べた。戦後は食糧難で苦しい生活が続いた。米軍から放出物資の配給があり、乞田まで受け取りに行った。その時に食べたベーコンの缶詰の美味しさは、今でも忘れられない記憶だという。
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