被災者が語る あの日とその後VOL.2防災講演会より
高齢者や女性を中心に畳のある部屋で知り合い同志かたまっていることを指示しました。同じ姿勢でいると血行障害になることから、定期的に体を動かすようすすめ、恐怖を紛らわすために会話を促しました。
トイレの使用についてですが、大は便器に砂が詰まって使えないので、紙の上に用を足し、ビニールに入れ別の燃えるごみの袋に入れることにしました。次の方が清潔に使えるよう、安心安全に用をたせるよう心がけることを徹底したのです。
被害状況が明らかに
外を見ると角材につかまった男性が東の方から左右に流されていましたが、どうすることもできず、助けられませんでした。児童館に取り残された児童と先生であろう女性2人が助けを求めていましたが、水が多くて助けに行けなかったので、「水が引いたら助けに行く」と言い、3人離れないように指示をしました。夜になって公民館長に「食べ物があるか」と尋ねると、この日幼稚園と中学生の卒業式があったため、残り物と飲み物がありました。しかし全員分はありませんでしたので、避難者を集め配りました。ラジオからは仙台の荒浜の農地に200〜300の遺体がある。閖上小に800人、閖上中に1200人、仙台空港に2千200人が避難しているとの報道がありました。しかし、われわれの閖上公民館は一度も報道されませんでした。ヘリが何度も上空を飛んでいたので、懐中電灯で児童館にいる人の救助を試みるもだめでした。寒さが厳しく避難者から「寒くて眠れない」と苦情がきたので公民館のカーテンや緞帳(どんちょう)をはずして毛布代わりに使いました。足りない分は閖上太鼓の法被、大漁旗などで寒さをしのいでもらいました。
7丁目のほうに目をやると、東の方から火の手が上がり、建物が焼失し一晩中燃えていました。避難所の世話人たちは家族の安否確認のため携帯で連絡をとるも、連絡がつかない状態が続き、電源切れが続出しました。翌日避難者の中の一人の女性が充電器を持参していたので、皆を助けていました。
一夜明け、出逢いと別れの明暗が
翌朝は良い天気で、東を見ると木造の建物が全くなくなっていて、瓦礫と化した建物の中に何かを探している人が何人か確認できました。
公民館を目指して右から左から後ろから、そして東から十数人が水浸しの瓦礫を避けて歩いてくるのが見えました。公民館に避難してきた人たちでした。腰から下は濡れていて、けが人もおり消毒をしてあげました。
何度もヘリに助けを求めたがだめだったそうです。昨日助けを求めてきた児童館の女性と児童を助けるために男性3人に行って頂き、背負って公民館に連れてきました。3人を助けることができたのです。児童の名札に記された携帯番号に連絡すると両親が迎えに来て歓声が上がりました。
支援物資の搬送先
午後になり公民館に自衛隊がやってきました。食料を求めると、支援物資の搬送先に指定されていないので対象外と言われました。「中学への避難の道案内に来た」とのことでした。私は中学へ避難するため外に出ると、閖上公民館の窓も全て無くなり、いっぱいのがれきの中に何人かの手足が見えました。私も家族の安否が気になりましたが公民館を後にして中学校に向かいました。途中、長男に出会いました。長男から4人と連絡取れないと聞かされました。
自衛隊や県警、消防隊の方々の懸命の捜査活動により毎日仙台空港に遺体が搬入されてきます。前日に発見された遺体は、化粧を施され、白装束に着替えられ棺に入れられます。早めに発見された遺体はショック死が多いが穏やかな顔が多かったようです。棺には発見者と場所、性別が記され、棺の前には遺留品がビニール袋に入れられていました。
悲しみの再会
遺体の確認は警察官の立会のもと行われ、損傷が激しい遺体は顔を見ることができないと張り紙がありました。遺体は毎日午後4時頃になると自衛隊により、棺に入れられ、安置所に運び込まれます。肉親が見つかると、棺の前に2重3重に輪ができ、名を呼び、号泣していました。葬儀社を通じて無言の帰宅となるのです。
【次回につづく】
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