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綾瀬版 公開:2015年3月13日 エリアトップへ

〈第9回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる【9】 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年3月13日

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 一方、頼朝が石橋山で挙兵した。治承4年(1180)8月17日、これに遅れる事半月、挙兵の機会を窺っていた木曽義仲が信濃国松本平にて挙兵。平氏方笠原頼直を破る。平氏打倒の令旨を以仁王より義仲の許にもたらされてより日々焦燥が続いた事だろう。祖を頼朝と同じくしながら、ふとした話の行き違いから父・義賢(上野国多胡郡に割拠)、義朝の長男・悪源太義平により、武蔵の国大蔵の館にて討る。久寿2年(1155)8月16日の事だった。わずか2歳だった義仲、乳母夫の中原兼遠に委ねられ信濃国木曽の山中で育っていかねばならなかった。令旨を受取った頃、既に27才。それまで石清水八幡宮に参詣。元服式を挙げ、平家の様子を窺うため密に上洛を重ねていた。が…しかし、義仲に挙兵するだけの軍事力は養父・中原兼遠の戦力しかなく、地域戦を繰り返しながら戦力を整えていった。南信濃から信濃北部を収めながら義仲は父・義賢の由緒を頼り上野国多胡郡に入った。父の縁故を頼り源家由縁の豪族達を説き信濃の国に帰った。養和元年(1181)6月を過ぎた頃、信濃・上野・越後・北陸道の武士団、義仲に服従していった。

 ところは京洛。治承5年(1181)を迎えて清盛の専横は平家一門内でさえ混乱をきたし、対応に苦慮していたが清盛、俄に体調を崩し急逝す。時に清盛64才。波乱万丈の生涯であった。遺言の一つに「子孫は東国を平定せよ」と述べてあった。平家一門を権力権勢の中枢に引上げ、自身は太政大臣まで登り詰めた一代の梟雄だったか…?いや英雄だった。ともあれ、平氏政権の運営は混迷が始まる。清盛没後平氏一門を率いる立場についたのは平宗盛であった。既に宗盛は全権を委任されていたのだが、事もあろうに政権を後白河院へ返上し清盛の遠大な構想は水泡に帰し、平氏一門の統率も混乱に拍車がかかる。政権を返上したとはいえ、軍事・警察部門は掌握していたので各地に蜂起していた源氏由縁の氏族達の鎮圧に向けて宗盛、寧日無き日々が続く。遠く東国に頼朝の遠吠えが近くに北陸道で義仲の雄叫びが頻繁に届く様になってきていた。

 これより少し遡ると、東国鎌倉に於いては頼朝、関東をほぼ掌中にし、満を持して西上の機会を窺いながら組織の充実を計り有職故実に乗っとり、諸行事と取組んでいたが、その中に渋谷一族の姿が見えたが既にこの頃、頼朝の御家人として諸式に列する中、随所で20年余、重国に庇護されて育った佐々木兄弟の活躍の姿があった。
【文・前田幸生】

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