神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
綾瀬版 公開:2015年4月10日 エリアトップへ

〈第10回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる【10】 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年4月10日

  • X
  • LINE
  • hatena

 重国とて人の子。桓武平氏の血を継ぐ一族として誇りと矜持を胸に秘めながら、佐々木一族の頼朝の側近として近侍する日々を如何なる思いで垣間見ていたのだろうか

 思えば20余年前、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れ平家の追捕を逃れ敗流の途上、ここ渋谷の庄にて重国に匿われ、平家の目、近隣氏族を意識しながらの庇護だった事だろう。幸い平家方は清盛の政治経済の手腕が発揮され、栄耀栄華への階段を登りつつあったので東国監視の網の目が弛んでいたのか

 今は重国、様々な想いが去来し、渋谷一族の立ち位置も勘案して一族の安泰繁栄も配慮していかねばならなかった。幸い頼朝は石橋山の合戦の際、平家方についた多くの氏族の大半を赦し度量の大きさを示し、譜代の家人の弱小を補完していった。

 重国、今は渋谷の庄へ進出以来、気候風土に恵まれ領地の開拓、保全、相模野舌状台地特有の起伏に富んだ領土と格闘しながら治山治水を計り、経世済民に余念がなかった。

 光重を筆頭に5人の男子たちも今は立派に一角の将器に育ち、宏大な領土の経営に勤しんでいた。光重、今は渋谷一族の統轄を任され、父・重国の補佐も果たしていたが、鎌倉の頼朝の許に出仕するのは高重の務めとなっていた。重国の深謀遠慮だったのかともあれ、平家討伐の後詰の軍出陣は間近に迫っていた。

 一方、木曽義仲、北陸道の勢力の結束・拡大は続いていて、越前国府での合戦では平氏追討軍敗退を余儀なくされ敦賀・若狭あたりまで退却。陣営の立て直しを計らねばならなかった。時に養和元年(1181年)9月9日の事であった。

 それより少し前、養和元年2月、源行家率いる源氏軍の先発隊、西上を目指す途次、尾張美濃の国境・墨俣川辺りで会戦を展開。平重衡、源氏軍の進撃を一瞬喰い止め、北陸道方面へ軍を割いていく。

 平家方とて気骨のある武将、将卒もいたのである。人材も軍資金も豊富に保有しながら、あたら戦略戦術上において統轄を欠き、人材・領地を失っていく事を防ぎ切れなかった。ここ墨俣川の合戦で一息ついた平家軍だったが、北陸道方面は平家軍の立て直しは遅々として進んでいなかった。北陸地方の気象条件・気候風土を勘案すれば、止むを得ない事情を多く孕んでいたのか
【文・前田幸生】

綾瀬版のコラム最新6

あっとほーむデスク

  • 1月24日0:00更新

  • 12月13日0:00更新

  • 11月29日0:00更新

綾瀬版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2020年1月24日号

お問い合わせ

外部リンク