〈第14回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる14 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会
義経軍これより京へ突入するには、名にし負う宇治川の渡河を試みなければならない。逸る騎馬武者達。坂東武者は天下の大河を小川くらいしか思っていなかった。坂東の山野を戦いに、狩りに、領土開拓に駆け巡ってきた坂東武者と雖(いえど)も、時は正に京は正月。その寒さは坂東の鍛えぬかれた武者達も流石に、野営するにしても甲冑姿でいても骨身に堪えた事だろう。
ただ、当然ながら水嵩(みずかさ)は低かったが見た目には…!?飛び交う矢音、鯨波(とき)の中を突撃・渡河の命が下り、我こそはと激流の中に乗り入れていった。世に言う宇治川の合戦だった。後世語り継がれているのは、あの佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)の先陣争いであった。
厳寒の宇治川の畔、凄愴(せいそう)の気配が辺りを支配していた。義経麾下(きか)の将として渡河の軍勢の中には、渋谷・畠山ほか相模・武蔵の坂東武者達、壮絶な先陣争いを展開していた。
想えば高綱、平治の乱に敗れて重国の恩讐(おんしゅう)を超えた計らいにより、今、念願の地に至り近江源氏として頼朝の為に生きてきた誇り、20有余年抱いてきた望郷の念。景季とは、その想いに格段の違いがあった事だろう。
一方、景季、石橋山の旗上げ以後、頼朝に土肥実平の仲介が功を奏したか!?頼朝に随身出来た父・景時、帷幕の一員として登用されて父の為にも、梶原家の為にも命懸けの働きを示さねばならなかった。
そして渋谷一族…。綺羅星の如き頼朝の帷幕の将の中で、渋谷氏は敢えて出自の手前その言動は慎ましく、佐々木氏・梶原氏・他の将達の後塵(こうじん)を拝しながらの御家人としての参陣であったが、千載一遇の機会が迫っていた。
義経の作戦は常に果断だった。厳寒の激流の大河を目前に、躊躇なく渡河突撃の命令。命を惜しむ坂東武者達ではなかったが…!?高重をはじめ重国、重助、他の将達に遅れじと奮戦。乱戦の中、高重不運にも傷を負う。
一方、木曽義仲に僥倖(ぎょうこう)は無かった。後白河院との確執は致命傷となっていた。鎌倉勢は勅命を帯び、義仲は賊軍視され、義仲の陣営では離脱の将が続出し陣営立直しを企図するも空しく、戦場の離脱を選択しなければならなかった。
【文・前田幸生】
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