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綾瀬版 公開:2015年10月9日 エリアトップへ

〈第16回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる16 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年10月9日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 ここ相模之国渋谷庄一帯は坂東八ヶ国の中でも気象条件に恵まれてはいたが、太古より地殻の変動や大小河川の移動等、大自然の営みの過程の中で舌状台地が形成され、起伏に富んだ平坦地の少ない地帯が誕生。域内には50万年の歴史を有するといわれる相模川の名残川、支流とも言われ5万年の歴史を有する目久尻川を擁し、その他小河川の恩恵を受け、また一方で氾濫・災害等に襲われたことだろう。大自然の恩恵は常に明暗はつきものだった。渋谷一族として例に洩れず力を合わせ領土領地の経営、治山治水に励まねばならなかった。

 木曽義仲討伐で功を挙げた渋谷一族、渋谷重国、別けても渋谷高重の働きは、渋谷庄に高重ありと源頼朝とその帷幕に存在感を示したことだろう。存在感が増す、大きくなるということは頼朝の帷幕の一員として、その責務も重くなっていく。

 頼朝、西へ照準を定め平家討滅、西国経営に大きく舵を取り始めた。坂東の東国の頼朝の帷幕の将たちも、束の間の安堵が得られたか!?西国発向(はっこう)へ準備に余念がなかったことだろう。

 この頃、朝廷では義仲滅亡後、平家追討と頼朝軍を膝下(しっか)に伺侯(しこう)させるべく画策・談合が続いていた。後白河院側近たちだった…。時の右大臣・藤原兼実の日記に「院の近習(きんじゅう)たち確たる定見もなく国家を乱している…」と慨嘆(がいたん)している。

 頼朝、後白河院の懐柔・甘言に惑わされず、西上を開始する。朝廷としても安徳天皇、三種の神器が平家軍の陣営にあり、無事に宮中に迎え入れることが大きな課題だったが平家側と和平の調停を打診しつつ、頼朝軍の西上進攻に際して、後白河院の和平工作がどの様な策だったのか!?頼朝軍、此の期に及んで聞く耳を持たなかったか!?

 結果として平家軍、作戦意見が乱れ嘗(かつ)ての平家の都落ちを彷彿とさせる平家軍、敗戦を余儀なくされる。平家側とて後白河院の調停工作に一縷(いちる)の望みが動揺を生み、朝廷内に心を通じる者がいなければかくも惨敗は無かったのでは…!?

 世に言う一の谷の戦いであった。かくて平家は西国西海へと未だ清盛が残した瀬戸内の拠点を頼りに落ちて行かねばならなかった。時に寿永3年(1184年)2月の頃であった。

【文・前田幸生】
 

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