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綾瀬版 公開:2015年11月6日 エリアトップへ

〈第17回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる17 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年11月6日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 鎌倉軍、怒涛の進撃だった。範頼・義経の両将、頼朝の帷幕の将達、それぞれの存念を抱(いだ)きつつ進軍していった事だろう。一の谷(や)、四国の屋島、そして壇の浦へと渋谷一族、日頃の鍛錬・訓練が奏功、坂東武者として十分な奮戦を示した事だろう。重国この頃、既に老境に足を踏み入れようとしていたが、その勇猛果敢な奮闘はあたりを圧し、高重・重助とて、同様の奮戦だった。

 平家軍、西海に追い詰められ栄耀栄華(えいようえいが)を極めた平家一門、かくも脆く敗れ去ったのは…。一族一将、決死の反攻を策謀する武将・謀将があれだけの陣営に、軍勢にいなかったのか!?拙(つたな)い戦略の果てだったのか…?

 勇将・平知盛、見るべきほどの事は見た…と、納得の入水(じゅすい)だったか?御座船(ござぶね)から海面を見下ろしながら、幼帝安徳天皇はなす術もなく、ただ二位の尼・時子に「これより何処へ参るのか…」。時子、ただ万感胸に迫る想いで「海の中にも都はございます」と答え、幼帝を掻き抱(いだ)き慟哭を抑えて瞳を見つめながら、入水を果たされた事だろう。

 戦いの常とはいえ、坂東武者とはいえ、渋谷一族この報に接し、胸の痛みを禁じ得なかったか!?時に元暦2年(1185年)3月の頃だった。これより渋谷一族、範頼軍の軍勢の中にあった。思いもしていなかった遥かなる軍旅、九州遠征だった。

 九州北部に割拠していた平家由縁(ゆかり)の勢力を掃討するためだったが坂東武者、その精強を謳われていた。頼朝の帷幕の将達、たじろぐ程の猛反撃だったが渋谷一族の重国の強弓(ごうきゅう)は、猛将・原田種直はじめ九州の勢力を沈黙させた。渋谷重国、渋谷一族一所懸命の働きで、その戦功は大きなものであった。が…しかし、いつの世も立場が違えば見方も判断も違ってくる。

 義経、一連の勝利に驕りはなかったか!?はたまた後白河院の巧妙な勧誘に迂闊にも乗ってしまったか…!?華々しい勝利の影で、平家軍との海戦では漕ぎ手を射殺。安徳天皇を失い奉り、三種の神器の一つを失い、一軍の将として作法と配慮を欠いていた。

 続々と届く戦況に、頼朝帷幕の将達の意見に耳を傾けながら、義経の任官について心を痛めていた。兄二人を平治の乱で失い、また弟・義経に兄として配慮が足りていたか…!?

【文・前田幸生】
 

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