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綾瀬版 公開:2016年7月8日 エリアトップへ

〈第24回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる24 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年7月8日

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 儚くも藤原三代の栄華は夢だったか!?嘗(かつ)て桓武天皇の御世、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、中央の朝廷に逆らう蝦夷(えみし)の首長・阿弖留為(あてるい)の討伐。平安後期、奥州平泉を中心に、周辺の豪族は覇権を巡って激しい争いを展開していた。

 桓武天皇、長岡京遷都に絡み、天皇の身辺に異変が続出する。陰陽師の卜筮(ぼくせん)に頼り、唐都長安を模した平安京造営に辿りつく。この間も政情不安が続いた事だろう。その後、前九年の役、後三年の役等で蝦夷を、奥羽の豪族を、様々な調略を駆使して辛うじて抑えた。

 この後、藤原清衡、源義家の援けを受け奥州藤原氏発展の礎を築き、また源氏も東国・東国以北に大きな拠点を築いていた。藤原泰衡、先祖が営々と築き、秀衡が死の床で残した言葉を何と聞いていたのか!?

 頼朝、泰衡の恭順の意に配慮を示さず、送られてきた義経の塩漬けの首を実検し、如何なる感慨だったろうか!?ともあれ頼朝、泰衡討伐軍を催す。時に文治5年(1189年)7月の頃だった。

 一方、渋谷一族。重国、高重兄弟達、奥州討伐軍参陣のため多忙を極めていた。重国、昨今、諸行事への参加参列の姿が減りつつあった。だが、その隠然たる存在感に渋谷一族、充分の敬意を払いながら出陣の準備に遺漏(いろう)なきを期し、鳩首会談を続けたことだろう。

 相模国中央部に進出以来、気候風土にも恵まれていたが的確な状況状勢判断、一族の結束を計り、今や鎌倉において渋谷庄に渋谷氏ありと、その存在感を示しつつあった。国重、積年の言語に絶する労苦があった事だろう。今は一族郎党の無事と功名を挙げての帰還を中心で願っていた。

 鎌倉の奥州討伐軍、堂々の陣揃へだった。軍勢の先頭は源氏一族が占め、軍列の中央より前方に渋谷高重・時国の勇姿があった。高重、戦場に於いては鬼神の如き剛勇の武将だったが、今は父・重国の背中を見ながら教養も身につけ、鎌倉に出仕する臣だった。頼朝の帷幕には百戦錬磨の武将、故事来歴に通じた臣達。その中での近侍(きんじ)の日々。今、奥州平泉への出陣途上、馬上にて頼朝の決意決断、泰衡の対鎌倉への対応。一人の武将として一人の人間として、父・重国への想いが重なっていた。既に高重、渋谷一族の棟梁の位置だったが、帷幕にあって自分の立ち位置を見極めねばならない地位と立場にあった。

 一方、泰衡、奥州藤原の精強の兵の物語を聴いて育った御曹司だった。蝦夷の阿弖留為、前九年の役、後三年の役の安部・清原氏等の朝廷軍、源氏との数々の戦いは語り草となっていたが、今は藤原氏を泰衡を護り戦い抜く嘗ての奥州藤原軍の精強の面影は無かった。一応、迎撃態勢をとるも所詮、蟷螂の斧だった。

【文・前田幸生】
 

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