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綾瀬版 公開:2016年9月9日 エリアトップへ

〈第26回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる26 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年9月9日

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 時として歴史の展開は、当事者達が思ってもいなかった方向へ向かう事があった。藤原の泰衡、河田次郎に討たれる寸前、父・秀衡の枕頭(ちんとう)の言葉が去来しなかったろうか!?ともあれ頼朝、多くの困難と消耗を覚悟していた事だろう。豈図(あにはか)らんや急転直下の展開に流石の頼朝、その帷幕、河田の処遇に苦悩した事だろう。褒賞か処断か!?

 今、頼朝、未曾有の武家・武士に依る府を創業せんと心血を注いでいた。帷幕と共に…。この府を揺るぎないものとしていく為に、泣いて馬謖(ばしょく)を斬った。時に頼朝、陸奥(むつ)・出羽(でわ)を平定。念願であった奥州藤原氏を討滅。文治5年(1189年)7月19日、鎌倉を進発し、10月24日鎌倉へ凱旋した。疾風迅雷の作戦だった。

 奥州遠征が一段落し、鎌倉に一時(ひととき)の平穏が訪れる。渋谷一族、高重・時国、奥州遠征に際し、頼朝の信頼を得る充分な活躍だった。他の部将達の手柄争いにも冷静沈着な言動だった。奥州平泉に華麗なる仏教文化都市を、強大な王国を築いた藤原氏。その滅びを息子達の報告で重国、戦勝を祝ってはくれたが、その表情は沈鬱だった。

 桓武平氏として、秩父平氏として、この地に進出して来た頃の苦難の日々。今、広大な領地を有し、鎌倉の頼朝の御家人としての地位は揺るぎないものとなってきていたが…。高重・時国の戦場・戦勝の報告に、頼朝父祖の代より縁(ゆかり)浅からぬ藤原家。その藤原家が、今は…!!名族の誇りを背負いつつ相模国の一隅(いちぐう)に、領土経営・勢力拡大に腐心しながら、今日(こんにち)を築いてきた重国だった。今は一角(ひとかど)の鎌倉の御家人として存在感を示していた渋谷一族。重国、藤原家滅亡は渋谷の庄を開拓経営してきた者として、惻隠(そくいん)の情を禁じ得なかった。

 頼朝、奥州藤原氏の討滅を果たし、戦後処理に混迷・心痛が続いていた。妻・政子の勧めか、帷幕の助言か、大庭あたりに狩りに出かける事となった。大庭は父・義朝、東国往来の頃、縁を持った地域だった。案内はこの頃、この地を領していなかった大庭景義だったが、我が庭同然の地域だった。引地川流域で景義の案内で頼朝、狩りを満喫し心の整理がついたか…。

 頼朝ふと思いついたか、帷幕の勧めがあったのか、鎌倉まで帰舘しても何の苦労もない距離だったが、渋谷重国の居館に立ち寄る事となった。大庭の狩場から渋谷家まで、指呼(しこ)の距離だった。重国の方こそ頼朝の父・義朝の非業の最期を想い、河田次郎の処遇を想えば、その対応に苦慮し、その胸中は如何ばかりであったろうか!?

 思えば、これは頼朝の渋谷一族を、重国を、破格の信頼を与えてくれた心意気だった。重国、石橋山旗上げ以来の心の深奥(しんおう)の蟠(わだかま)りが解けていく思いだった事だろう。

【文・前田幸生】
 

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