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綾瀬版 公開:2016年11月18日 エリアトップへ

〈第28回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる28 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年11月18日

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 今、頼朝、坂東・東国の地、父祖代々、由縁(ゆかり)の深かった鎌倉へ武家の武士達の府を築こうとしていた。父祖代々、武家武士達、帝・朝廷に犬馬(けんば)の労を強いられてきた忍従の日々があった。想えば頼朝、有為転変(ういてんぺん)の世を幼少より身近に経験しながら、父祖の遺志を心中に刻んでの今日までの年月だった。ただ心に痼(しこ)りとなっていたのは、策謀の人・後白河院、思いがけなくも薨去(こうきょ)され、頼朝、天を仰ぐも摂政・九条兼実の計らいで征夷大将軍に就けたのだが…。後白河院、病床にあったのか突然の卒去だったのか…!?頼朝の将軍就任への画策は念頭になかったのか…!?頼朝、山積する鎌倉幕府の創設に必要な素案は常々持っていたが、いざ纏めるとなると、綺羅星の如き臣達に、適切な部署、地位を宛行(あてが)う事は、合戦に等しき困難な事だった。

 渋谷一族・重国、過ぐる日、頼朝、大庭郷の狩りの帰途立ち寄り、晩餐を倶(とも)にしてくれたその絆は本物だった。頼朝上洛の折も鎌倉の留守を預ける枢要(すうよう)の役目だったが、幕府創業創設に、頼朝の力に貢献した事だろう。重国、既に老いが迫っていた身だったが桓武平氏・秩父平氏の流れを引く氏族として、相模国渋谷庄を営々として開拓・開発してきたが、今、鎌倉幕府創業に関われる事、感慨無量だった事だろう。高重とて同じ思いで父と倶に一族と倶に今日(きょう)迄の労苦を語り合った事だろう。想えば石橋山以来、頼朝の麾下(きか)に馳せ参じた錚々(そうそう)たる諸将。桓武平氏・清和(せいわ)源氏・藤原流等を祖と仰ぐ千軍万馬(ばんば)の将達。重国、居舘にいても鎌倉を俯瞰しながら、頼朝の彼等の統率に苦慮呻吟(しんぎん)している事を想い、幕閣の組成に関与しているであろう高重にも、言動を慎む様に配慮を求めていた事だろう。重国・高重尽力の甲斐成って、侍所・政所(まんどころ)・問注所、その他7部所が設けられ、適材適所で人材が配置され、頼朝の鎌倉幕府堂々の船出だった。

 渋谷氏、高重・光重、今は領地の経営も安定し、遠隔地の領地の経営も難渋は伴ったが、鎌倉幕府創設成った以上、近隣四囲の氏族との争い事は避けねばならなかった。時に建久3年(1192年)11月25日、鎌倉二階堂に平泉毛越寺(もうつうじ)を念頭に建立された永福寺の落慶法要に、また建久4年(1193年)3月21日、頼朝、下野国(しもつけのくに)那須野、信濃国三原等の巡見の折に弓箭(きゅうせん)に秀でた武士(もののふ)として、その随行の隊列に颯爽と騎乗の高重の姿があった。一方、重国、猶(なお)、矍鑠(かくしゃく)として建久4年5月28日、富士の裾野の頼朝の巻狩(まきがり)の陣中に、その姿があった。   【文・前田幸生】
 

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