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綾瀬版 公開:2017年2月10日 エリアトップへ

〈第30回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる30 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2017年2月10日

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 驚天動地の大事件だった。事もあろうに頼朝の近臣が討たれるとは…。嘗(かつ)て戦場往来の強者(つわもの)達。今、安寧の緒(ちょ)に就いたばかりとは言え頼朝の陣営の混乱ぶりは、収拾のつかない状態が続いた。頼朝、身辺にも危険が迫っている事を予感していたか…!?思えば大業成り、日々、鎌倉幕府を泰山の安きに置くため近臣・幕閣達と寧日なく万端遺漏なく弥栄(やさか)を願い心を砕いてきた頼朝だったが、近臣・幕閣・諸将の間に相剋(そうこく)があったのか!?頼朝、不覚にも疑心暗鬼に陥る想いを封じていた。一方、渋谷一族、重国。曽我兄弟、本懐を遂げるも心中は如何ばかりであったろうか!?四顧(しこ)の諸将・諸族の風聞よりも吹き渡る風の葉音に、飛び立つ鳥の羽音に、緊張の糸の震えに、重国、高重、心中の葛藤が辛かった事だろう。一族の者も口には出さずとも、その表情に見て取れた。

 今、鎌倉幕府で頼朝の信頼を得て存在感を示している部将閣僚がいた。梶原景時である。頼朝の危機を湯河原の椙山(すぎやま)の鵐(しとど)の岩屋で、咄嗟の機転で辛くも救った逸話は世に知られているが、土肥実平の知遇を得て?幕閣の閣僚に名を連ねていた。鎌倉幕府の侍所の別当は、挙兵以来の功績が高かった三浦一族の和田義盛が務めていたが、実務は梶原景時が一手に握っていた。東国武士団の中で一際(ひときわ)、気配りが行き届き侍所の所司として、また地の将として地の利を生かし、頼朝の鎌倉の府の諸事をそつ無く処理し、所司として、側近として重きを成していた。此の度の富士の裾野の巻狩りの陣中における事件は、収まってみれば二人の若武者が父の仇(あだ)を求めての突入だった。頼朝の近臣・側近達の狼狽・混乱ぶりを景時、看過しなかった。

 事件の真相は、伊豆半島に依拠(いきょ)していた祖を同じくする工藤氏・伊東氏、同族縁者同士の領地争いだった。この事、この事件、何の情報風聞も景時つかんでいなかったのか!?今、鎌倉幕府でも重きを成してきていた景時の前で、迂闊な言動は多くの近臣・重臣達も慎んでいたのだが…。頼朝とて、この件を徹底追及か穏便処理か呻吟した事だろう。だが…今、頼朝、奥州平定を終えて(文治5年〈1189年〉10月)甲冑を脱いで早くも4年の星霜が流れていた。今は日本を束ねる征夷大将軍。王道を往く王者だった。景時は、誠実な優秀な能力の高い将だったが、彼の探索の手が二人の若者の縁者縁戚に及べば鎌倉幕府の今大事な時期(とき)の結束の緩みこそが危惧され、頼朝、暗に穏便に処理する様に…苦渋の決断を伝えた事だろう。

 近臣・幕閣の諸将達。中でも渋谷一族、重国・高重・主だった者達、安堵の胸を撫で下ろしていた。仄聞(そくぶん)に依れば近臣・幕閣間で蝸角(かかく)の争いが潜在している事、承知していたが…。今は重国、一族一党の結束を固め、この渋谷庄の各地を領有している子息たちの領土の健全を願いながら、己の引き際を老いと相談しながら模索していた。

【文・前田幸生】
 

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