綾瀬版 掲載号:2017年5月12日号

〈第32回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる32

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  重国・光重・高重・渋谷一族、源頼朝の陣へ参陣以来、富士川の戦いをはじめ一の谷・屋島・壇ノ浦…西海(さいかい)へと平家討滅の修羅の道を駆けてきた歴戦の武将だったが…。今、鎌倉には表向きは安穏・安寧が訪れていた。重国、今、静かに矛を納めようとして我が一族・領土を俯瞰していた。光重、本来は渋谷家の惣領だったが、父・重国の配慮を受け、領土経営、一族の結束に専念しながら、幕府内・幕閣の動向にも充分な配慮を怠っていなかった。高重、今は渋谷家の惣領として出色(しゅっしょく)の武将として鎌倉の御家人として存在感を増していた。

 だが重国、未練がましく自問自答があった。経世済民・治山治水、懈怠(けたい)なかりしか…!?また、今も胸中に去来するのは祖を同じくする三浦義明の事だった。頼朝、石橋山旗上げの時、時節柄、駆けつける行く手を氾濫する大河に阻まれ切歯扼腕(せっしやくわん)した三浦義明、三浦勢の総帥として衣笠城に割拠し、三浦半島に威を振(ふる)っていた。不運にも頼朝討伐に向かう畠山重忠と遭遇、干戈(かんか)を交える。義明、絶望的な戦況の中、不屈の闘魂を発揮する。この時、義明、齢(よわい)89歳だったと伝えられている。重国この事、脳裏にあり懊悩(おうのう)があった事だろう。この後(のち)、頼朝、建久6年(1195年)3月10日、東大寺大仏殿再建。その落慶法要の為、再度上洛を果たす。渋谷家・渋谷一族、必然の事ながら随行の隊列に高重・郎党達の勇士があった。

 晴れがましくも出費の調達に、例外を除き御家人達、難渋した事だろう。鎌倉幕府・頼朝にとっても上洛は大きな行事で、財力・労力の費消(ひしょう)は莫大であったが、それでも猶(なお)、鎌倉幕府・頼朝の存在感を知らしめる絶好の機会だった。頼朝の側近達も有識故実(ゆうそくこじつ)に疎い御家人もいて、大江広元をはじめ心痛の閣僚達もいて、何かと波乱含みの場面が展開されていたのでは…!?

 ともあれ頼朝、対朝廷工作は政治的には小康状態を保ちながら、国家の政事に配慮を怠れなかった。今、渋谷高重、父・重国の呪縛も緩み兄・光重、弟達と幕府への出仕、領地領土の充実に、余念が無かった。また兄・光重とは渋谷家の幕府内の立ち位置を深更(しんこう)まで語り合った。桓武平氏、秩父平氏を祖と仰ぎながら武蔵国、相模国と各地に割拠し、今、渋谷氏、相模国の一角に広大な領土を有する氏族となっていた。僥倖(ぎょうこう)にも恵まれたが、薄氷を踏む道程(みちのり)も続いた事だろう。先代達の労苦を想い、この地を守っていく事を誓い合った。

 今、鎌倉幕府の政界は頼朝の妻・政子の父・北条時政、密かに権力の萌芽となる動きを始めていたが、頼朝の存在が抑止力となっていた。頼朝、政子との板挟みで、その動静は承知していたが苦言を呈するには苦慮した事だろう。高重、今は武蔵横山党の横山氏をはじめ、和田氏等々、姻戚・親類の絆が醸成されてきていたが、反面、言動に慎重を要する構図となってきていた。嘗(かつ)て戦陣を阿修羅の如く駆け巡った高重だったが…。父・重国の寡黙な佇まいの中で見せた大きな背中を想っていた。

 【文・前田幸生】
 

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