綾瀬版 掲載号:2017年12月1日号
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〈第37回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる37 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

 景時、文治5年(1189年)、奥州合戦以来、甲冑とは縁の無い鎌倉の府に於いて、頼朝の信頼を得て治政に専念し、頼朝亡き跡も鎌倉の府を盤石ならしめる為、心を砕いてきたのだったが…。景時程の武将、北条時政の策謀、比企・三浦・和田氏等の確執が飛び交い、ましてや将軍・頼家の母は北条政子。その頃、既に政界にも存在感を増していた筈だったが…。景時、今、膚(はだ)を刺す寒風の中に、ふと戦場で幾度も感じてきた気配が迫ってきている事を察知していた。流石に、歴戦の武将だった。この地は北条時政の配下の地であり、既に包囲されている旨を随従してきてくれた一族郎党に静かに告げた。従容(しょうよう)たる口上だった。今日迄よく従って尽くしてくれた事に礼を述べ、一人でも多くこの場を脱出するよう懇願した。包囲網を切り抜けた者達はこの後、再び歴史に登場する。

 一方、高重、上洛を目指した梶原景時、駿河国狐崎で北条時政の配下の地元の将・矢部平次の手により、鎌倉の府にその人ありと謳われた将だったが、最期の報を耳にしていた。高重、忸怩(じくじ)たる念(おも)いだった。決して好意は持っていなかったが、景時の失脚によって北条・比企・三浦家の勢力争いが顕在化してくる事は、宿老・有力御家人達、概ね想定していた。高重もまた、兄・光重と2代将軍・頼家、不幸にも、不運にも、将軍としての資質に欠け、外祖父・時政、母・政子と岳父(がくふ)・比企能員(よしかず)の立場の異なる意見に、決断の一つさえ出来ない状況に…。ましてや宿老達の意見に心を開く余裕もなく、この事、兄弟で鎌倉の府の行末を案じた。

 今では高重、姻戚による縁戚も増え、言動にも配慮を要した。その姻戚となっている武蔵七党の横山党・横山氏であった。出自をたどれば、遥か1410年前の頃、推古女帝・厩戸皇子(うまやとのおうじ)の治世(推古天皇15年/607年)、遣隋使として隋へ渡った小野妹子とされている。その武蔵の地とは今の八王子市、横山町の辺りか!?桓武平氏が、秩父平氏が坂東に土着する以前、渋谷氏の祖が秩父に根を下ろす頃、規模は大きくはなかったが先住の氏族として武蔵横山の地に武蔵七党の一党として存在していたのである。その流れを汲む一族として相模国では愛甲氏、海老名氏(?)として鎌倉の府に於いても存在感を示していた。今では武蔵七党の出自を誇る一族だったが…。今、高重、自分の気性は棚に上げ、横山氏の言動に一抹の危惧を抱いていた。

 鎌倉の府は、今や北条氏と比企氏、一触即発の状態だった。高重を含めて多くの御家人達、錯綜する情報にどちら側につくべきか、去就に迷った事だろう。一方は現将軍の母・外祖父、片や現将軍の岳父。和すればこれ以上無き縁戚、血盟の間柄であったが不幸不運にも頼家、将軍としての資質に恵まれていなかった。両家は破綻の道を選択したのであった。比企氏に勝算があっての事だったのか!?比企氏、有力な閣僚の立場を放擲(ほうてき)し、千慮の一失だったか!?営々として築いてきた秩父平氏の名族だった。想えば秩父平氏として、祖先達は労苦を共にした間柄であったろうに…。高重、今はこの事に関与せずに済んだ事に安堵していた。

     【文・前田幸生】

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