三浦の散歩道 〈第69回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
八景原は近代に入ってから、自殺の名所になってしまいました。遊廓から逃げ出した遊女が身投げしたことから供養塔が建てられています。今では草木に覆われて見難くなっています。『北原白秋その三崎時代』(野上飛雲著)に、この所を次のように述べています。「絶壁を吹き上げる風も女の呻(うめ)き声に似たり、礁に蠢(うごめ)き寄る白波にも陰惨さが加わり、磯鴨の声に物あわれが漂う一面がある」とあります。
白秋が死を覚悟して三崎へ来たのは大正2年(1913)の1月です。この時八景原を訪れて、次のような歌を詠んでいます。
「八景原春の光は極みなし涙ながして寝ころびて居る」「八景原の崖に揺れ揺れるかづらの葉かづらに照るあきらめきれず」
白秋は十日余りの三崎滞在でしたが、この地へ何度も足を運んで、周囲の風景を眺め、精神的にも落ち着きを取り戻していったのでしょう。次のように詠んでいます。
「あまつさへ日は麗(う)らかに枯草のふかき匂ひもひとにきかなや」
その10年後の大正12年(1923)の2月に、前田夕暮と共に八景原を訪れています。
話は古くなって恐縮ですが、江戸期の天保12年(1841)に完成した『新編相模風土記稿』によりますと、当時の宮川村の家数75軒で、三崎町(この当時も町の呼称)の家数は597軒でした。平成17年の宮川は484世帯となっています。小名に「台」・「田中」が含まれていました。現在では向ヶ崎、晴海町に変わっています。村人の始めは、伊勢国からの移住と言われています。
昭和10年(1935)発行の『三浦郡神社由緒記』によりますと、当時は「三崎町六合字宮川鎮座」とある「指定村社、神明社」の説明に、「当三崎には伊勢国の人漁業の為め来り住す事頗(すこぶ)る多く海女等は殆(ほとん)ど彼の国の人なりと云ふ、随って神明社を祀り己れ等の守護神となせしも後に夥多(かた)の崇敬を受け遂に此の地の鎮守になったものといはれる」とあって、明治6年(1873)6月村社に列せられたとあり、山間の丘上平垣なる地に鎮座して社境幽邃清閑にして、社殿は流造りにて新しい建築である」として、さらに、近郷の崇敬を聚めて、参賽絶えたることなしといふ」とあります。もちろん、祭神は「天照大神」です。相ともに伊勢外宮の女神「豊受毘売命(とようけひめのみこと)」をも祭られています。
神明鳥居を入ると、比較的新しい狛犬がありますが台座に「東京市向島区」に住所のある芹澤兼吉の名が見えます。造立は昭和10年とあります。他に手洗い鉢や灯籠は、当村の宮川庄右衛門とあり、いずれも明治期のものです。社殿の左側には「稲荷社」も祀られています。神殿の瓦葺きの屋根に乗る「獅子像」もなかなかなものです。
つづく
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