三浦の散歩道 〈第78回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
明治25年初めの頃まで、現在の原万堂付近は街道の宿場であったと言われています。「原そば」と呼ばれた藤沢屋、荒物屋を兼ねた酒屋の山崎屋、道をへだてての、うなぎ屋の4軒の店があって、三崎町からここまでの道沿いには家はなかったと言われています。幕末の頃には今の信用金庫辺り一帯に「陣屋」があって4軒の店は行き来の旅人飛脚や馬子、陣屋の侍を相手にしての商売であったという。特に、藤沢屋は旅人宿もしていたとのことです。
では、その旅人が行き来した「道は」どこなのでしょうか。人伝てに聞いた話では、今の小川酒店の脇を入っていくところが小網代の「なもうた坂」に至る道だと言うので、歩いてみました。道は「諸磯公園」の広い谷戸の上に沿ってあります。しばらく行くと、左側に「石塔群」が見えてきます。隣は小さな「地蔵堂」になっています。道幅は小型の車が1台通行できる程ですが、かつての街道を感じさせるところです。
石塔群は、前面に4基、後ろに2基の6基です。前の4基の両脇は「念仏塔」で、右側のものは「天明7末年、稲取材」と刻され、正面に「南無阿弥陀仏」の名号と「五月十三日、◎戸村」の文字が刻されています。「◎戸」の文字はよく分かりません。その石には「釈」の文字の下に「讃海、秀海、教海、須海」の文字が読みとれます。天明7年と言えば1787年、11代将軍徳川家斉の時代です。後ろの2基の石塔のうち、右側は卵塔型のもので、文政元年(1818)7月「原譽喜道圓法子位」の文字が見えます。左側のひときわ大きな「板碑型」の石塔に「溺上死人之墓」と記され、右に「豆州稲鳥村」左に「忠右衛門船水主四人乗」との文字が記されています。ここにも「稲鳥」の文字が読みとれるのです。
当時、伊豆半島の稲取と漁業の関係か、物資の交流かは不詳ですが、この街道筋に建てられたことは何か意味があるのでしょう。
石塔の隣に、美しい花に飾られた「地蔵尊」が祀られています。何時のものかは不明ですが、光背の部分に「三界万忌為有縁無縁」の文字が刻まれています。「過去・現在・未来の三世」において、たくさんの死者の命日のため、それも縁があろうと無かろうと、すべての人々を救援しようというお地蔵さまなのでしょう。非常にありがたい仏様なのです。
多くの人々が信仰されているのか、美しいお花に守られた地蔵尊のお姿です。前面に「南無阿弥陀仏」の文字と「天保三(1832)辰年六月」との文字も読みとれる墓石が埋め込まれています。隣にも坐してた石仏が祀られています。
この道はまさに、江戸期の道なのです。
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