全国からマグロの延縄(はえなわ)船が集まる遠洋漁業の基地として名を馳せた昭和初期の三崎。昼夜問わず人で溢れかえっていたこの街の様相を変えたのは戦争だった。
三崎の漁師の家に生まれた石渡定子さん(85)は、港の栄枯盛衰をつぶさに見てきた1人だ。戦時中の三崎魚市場周辺の様子を尋ねると、蘇ってくるのは長閑(のどか)だった港町におよそ似つかわしくない人々の歓呼の声と揺れる日の丸の旗。「毎日のように出征していく志願兵の壮行会が開かれていました」。自らの意志で戦地へ赴いた少年たちは14〜15歳。今の中学生と重ね合わせ、年端も行かぬ子どもが戦乱に巻き込まれたことに「今では想像できない。平和のありがたみを感じます」と涙を滲ませる。開戦後、周囲の民間船は次々と海軍に徴用され、賑やかだった港の活気は失われていった。
戦時中は三崎実科高等女学校に通学していたが、学徒動員で一切の授業が停止。近隣の根岸鉄工所で機械の図面引きに従事していた。何を作っているのかも分からない。ただひたすら言われるままに机に向かう毎日。作業中、空襲警報のサイレンが鳴るたびに逃げ込んだ防空壕では仲間たちと肩を寄せ合い、時が過ぎるのをじっと待った。2機のB29が真っ直ぐな飛行機雲を描きながら自身の頭上を北へ飛んでいくのも見た。「じきにここもやられるのでは」―迫りくる恐怖心との闘いだった。結果的に三浦市内(当時の三浦郡)でも幾度か焼夷弾や爆弾による攻撃はあったが散発的で被害件数は少なかった。のちに工場地帯のある川崎や横浜、海軍工廠・軍港を擁した横須賀が受けた空襲被害の惨状を知った時は、身につまされる思いだった。「同じ神奈川でも生まれ育った場所が少し違うだけでこうまで違うとは。私は恵まれていたと思う」。往時を静かに振り返った。
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