三浦の散歩道 〈第90回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
昭和三十七年(1962)十一月に起こったヨットレース中での遭難について、元慶応義塾大学教授村井実著による文が「ヨットのそうなん」という表題で、小学校五年生の教科書に掲載されているということです。その文章の抜粋が、碑の下の石面に書かれています。少し長い文ですが全文を記してみます。
「昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで思いがけないことがおこりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶応義塾大学の『ミヤ号』(乗組員4人)と早稲田大学の『早風号』(乗組員6人)が突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶応義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして、各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の捜索活動が続けられましたがヨットは発見されませんでした。」とあります。
さらに、ヨットの柱を思わせる碑の先端に、眼に涙を催すような詩句が刻まれています。
「この小網代よりスタートしてわれらは進んだ 永遠のレース 吹きつのる風おしよせる波 最後まで、力を尽くしてたたかった あの水平線のかなたは われらのしとね 海を愛する人々よ。忘れないでくれ 海のきびしさ 海のやさしさ
そして、海を愛するこのわれわれを」とあるのです。
あふれる涙を拭いながら碑の裏側に回ってみますと、建立のことがらが記されていました。昭和43年11月の建設で、平成16年11月に移設再建されたとあり、「慶応義塾クルージングクラブ」の文字と共に五人の氏名、関係者一同と刻まれていて、施工の会社名も記されています。
この「油壷公園」の辺りは、かつて、特攻兵器とされた「海龍」の基地があった所です。「海龍」は二人乗りの有翼潜水艦で、防禦用の特殊潜航艇だったそうです。近くに鉄製の桟橋も残っていましたが、以前の姿とは変わって見えます。さらに崖面の洞穴がいくつか見られます。格納庫だったところでしょうか。
現在の油壷湾は戦争の面影もなく、多くのヨットが係留されている平和な姿です。ヨットを横に見ながら「三崎マリン」の前を通って、西海岸道路に向かいました。湾の低地から道路までは石段を上がらねばなりません。前半は四一段上がり、おどり場で一息入れて後半の三十段を登り、やっと広い道路に出ました。左へ曲がり、上り坂をしばらく進んで、信号のところで、路線バスの通る県道に至りました。
次回は「お精霊流し」の三戸海岸方面へと向かいましょう。
(つづく)
|
|
|
|
|
|