三浦の散歩道 〈第92回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「北尾根入口」を出て、農道を北に向かって歩いて行きますと、やがて道は右へ曲がりながら少し上りになってきます。ふとっ、左側を見ますと、広大な耕地が眺望できます。地図上では「不入斗」の小名に至るところで、かつては荒地で、丘陵と谷戸が入り組んだところであったのですが、今は広々とした畑地に造成されていて、みごとな風景です。後方を眺めると、シーボニアのマンション群が白く、積み木を組みたてたように見えるのです。目を右に向けて行くと、マリンパークの建物とその先きの海の姿も眺められます。さらに、右へと見る目を展開して行くと、相模湾が眺望できます。特に、西に沈む夕日と共に眺める富士山の姿はすばらしく、冬の季節は一層の素晴らしさを与えてくれます。道の前方奥には小高い丘陵地が見られ、ソレイユの建物なども散見できるのです。
さらに進んで行きますと右側にも舗装された道が現れます。京浜急行電鉄が発注した「土砂搬入工事」のために作られた道路なのです。いわゆる「北川湿地」の埋め立てに「発生土処分場建設事業を行っています」との看板があり、平成29年12月末日までとの表示もありました。この埋め立てについて、反対運動もありましたが、毎日、朝から日没まで、多くのトラックが行き来をしている情況です。道は二本平行して、少し下って、「御用邸道路」へと達します。
なぜ、「御用邸道路」と呼ぶのでしょうか。平成10年度に行われた「初声ガイド入門講座」をまとめた冊子『ふるさと初声を知る(記録)』によりますと、昭和四年(1929)、昭和天皇は趣味の生物研究の基地として、海浜の別邸が欲しいとされ、当時の初声村と三崎町一帯が候補にあがりました。「御用邸用地は五四・四五ヘクタール(16万5千坪) 地主百八十人、総額九十万円で話がまとまり、七月五日に支払われた。(当時の東京朝日新聞)」しかし、その頃の日本は財政事情が悪く、このため、初声御用邸工事が延期となり、その後、経済不況と戦争などで立ち消えになったと言うことです。光照寺裏手から高台の畑に上がる坂道の脇に、御用邸の境界を示す杭が打ち込まれていましたが、いつのまにか、不明になっています。現在では御用邸建設のための道路と名称のみが残っています。
三崎口駅が開通した頃は駅から「三戸入口」を経て、「神田入口」の停留所を通って「三戸海岸」まで、バスが通っていた道路です。現在では、時刻表によると、平日の15時25分発のバスのみになっています。
昭和50年代では道路の南側は谷戸田になっていて「出荷場」の脇から下りて行き田圃(たんぼ)で「お玉じゃくし」を採ったことが思い出されます。
(つづく)
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