三浦の散歩道 〈第94回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
北村包直著の『三浦大介及び三浦党』に、「三戸十郎友澄(別当義澄の子)は、兄平九郎胤義の密書に接し、内田次郎・庄司三郎・海戸五郎の三士を従えて上洛し、胤義と共に勤皇軍に属して戦死。三士は友澄の首級を携えて郷里に帰り葬った。」とあります。そのいきさつは「招魂碑」の銘文に記された通りであります。
三浦氏を名乗る三代後の義明は、「衣笠合戦」その他で、名を残した「三浦大介義明」です。その長男が(杉本)義宗で、和田氏の祖に当たります。次男が義澄で三浦氏の宗家を嗣いでいきます。この義澄を嗣いだのが義村で、「承久の乱」(一二二一年、承久三年に後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げた事件)後の処理に活躍をし、貴族からも一目置かれる存在となりますが、弟の胤義と友澄は宮延側に属したという皮肉な結果となってしまったのです。
「つつじ公園」を下って、道を左に行き、すぐの所を右へ曲がって直進すると、「光照寺」に至ります。手前の道路脇に十五以上も石塔が並んでいます。庚申塔と思われるものだけで十基はあります。なかには風化して読めない塔もありますが、一七〇〇年代に建てられたものが一番多く、六基を数えられます。庚申塔以外では、写真にありますように、「南無阿弥陀仏」の六字名号の隣りに「右あじろみち」と刻まれていて道標の役をしています。
石塔群の正面を右へ行った寺院が、龍徳山と号す、鎌倉光明寺末の浄土宗の寺です。『新編相模風土記稿』によると、「光照寺、龍徳山庄司院と号す。古(いにし)へ僧空念三戸某の臣なり故(ゆえ)あって出家す。村内に草庵を結び庄司院と号しここに住す。旧跡今庄司畑と号す。その後三徹と云う行脚の僧此庵に宿し修法を以て毒龍の害を除く。空念と師資(しし)(人を手助けする師)の約をなし、此地に一宇(いちう)を建て光照寺と号し庄司院の号を引いて院名となし。則ち徹を開山として徹宝誉と号す。永享二(一四三〇)年三月卒す。本尊阿弥陀三尊」とあります。
他に「三戸某宅跡」について、「海岸にあり、今陸田となれり、方三十間(けん)(五八メートル四方)三戸氏の事跡詳ならず」とあって、註に「光照寺伝に拠(もとづく)に、三戸某の臣空念は、永享中(一四二九〜四一)の人なり、然(しから)ば三戸某の年代も推(おし)て知るべし」と、記しています。この時代は室町期で、足利将軍の六代目義教の時代で、この年代の後半に「永享の乱」があり、鎌倉の地は関東管領の上杉氏が実権を持つようになった時期です。「三戸某」とは誰れなのでしょう。三浦では「三浦介時高の代で、油壷の新井城の城主であった頃です。
「光照寺」の観音堂に祀られている観音さまについての話は次回に…(つづく)
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