東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その4 団ジーンの生涯【1】
前述まで団勝磨の生い立ちや東大実験所との関係をご紹介しましたが、今回から日本人と地域の為に尽くした勝磨の妻である団ジーンの崇高な人生について触れることにします。
団ジーン(旧姓ジーン・クラーク)は、明治43(1910)年にアメリカのニュージャージー州で生まれました。ウィルソンカレッジ女子大(ペンシルベニア)からウッズホール(マサチューセッツ)にあるペンシルベニア大学院に入り、この研究室でジーンはウニの研究に着手。そして勝磨と出会い、結婚することになるのです。
この時点で日本へ帰国後は、三浦三崎の東大実験所でウニの研究を続けること、住まいを横須賀市の長井とすることなどが既定の路線だったそうです。
勝磨はアメリカで博士号を得て、昭和9(1934)年10月に帰国。三崎の東大実験所に副手の肩書きで勤務します。その後、一時渡米し、2人は昭和11(1936)年に知人宅で結婚式を挙げました。この結婚式は現地のマスコミも注目するところでしたが、その目を避ける形で簡素に行われました。参加者数は19人。日本人の出席は、義兄の会社のニューヨーク駐在員1名のみでした。
昭和12(1937)年、新婚旅行を終えた2人は神戸から日本へ入りました。そして、横須賀市長井に居を構えると、2人の研究室生活が始まり、ウニ・コマチなどウミシダ類を対象にした研究の成果を共著で発表していきました。
しかし、国際情勢は悪化。戦雲がしのび寄ると、実験所の研究員も減少していき、アメリカ人のジーンは敵性外国人であることから特高の見張りがつくようになりました。そもそも三浦半島は要塞地帯でした。
でもジーンは暢気な性格で、特高と仲良くなり、特高はその「暢気さ」を心配して勝磨に助言するほどだったといいます。(ちなみにジーンは、敗戦後に進駐軍と交渉して、長井に廃品工場を興すのですが、敗戦で職を追放されたその特高を管理人として採用します。ジーンはそういう人でした)。(つづく)
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