三浦版 掲載号:2017年11月3日号
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連載 第3回「三戸と小網代の渡船」三浦の咄(はなし)いろいろみうら観光ボランティアガイド 田中健介

対岸(小網代湾)の三戸の入道込辺り
対岸(小網代湾)の三戸の入道込辺り

 明治の代、『金色夜叉(こんじきやしゃ)』を著(あらわ)わした尾崎紅葉との知りあいで硯友社(けんゆうしゃ)に参加したこともあり、観念小説の作家とも呼ばれた川上眉山が明治三十(1897)年の正月、葉山の「日蔭茶屋」に宿泊していた後ち、長井を経て、和田を過ぎ、三戸を通って、油壷に至る様子を「報知新聞」に連載した『ふところ日記』の道筋を追いながら、眉山が目にした風景などを、原文を交えながら記してみようと思います。

 「酔うて長井を出でたるをいつとも覚えず」と書きはじめ、「既にして行々(ゆくゆく)又海を見る。日は早く暮れむとす。堤防長く練絹(ぬりぎぬ)の如き波を限れる水の江の際(きわ)に出づ。島あり、波島(はしま)といふ。右に荒崎を望み、左に黒崎を指す。夕日を洗ふ沖つ白波一簇(ひとむら)しげき磯松の水に躍って、空に飛べる、墨色太(はなは)だ秀(ひい)でたり。」とあります。現在の「初声町入江」付近かと思われますが、埋めたてられて「波島」も失っています。

 その後、眉山はこの地の民家に宿泊しています。そして、起伏した道を行きます。「村を出でて畠に入り、畠を出でて小山に入る。」ところを通って、「漸(ようや)くにして渡津(わたし)に出づ。舟子(かこ)我が来るを見て棹(さお)を突立てて待つ。三戸の浜を後に入江を横切りて、対岸近く小網代に着く。」として、やがて「高きに登りて一たび振返れば、江は足元に三戸の崎黒崎荒崎皆歴々として指すべし。」と書いています。「歴々」とは「歴然」の意で、明らかなさまのことです。

 その後、眉山は、寒いので、酒を求め、「一升を提げて荒井の城址を尋ねつつ行く。歩武(ほぶ)数百、麦作り菜作る方を過ぎて、松林の中に入る。」として、荒次郎義意の墓へと参っています。

 三戸から小網代へ、渡し船で渡ったと記しています。その渡船について、『三崎町史』上巻明治大正編に、次のようにあります。

 明治十六(1883)年の二月に「渡船開設願が県に提出され、小網代字西の台から三戸村字入道込に至る港巾百八十間(約325m)」とあり、その開設の理由として「右ハ三崎町ヨリ長井村ニ達スル間道ニシテ本道ニ比較スレバ凡十八町(約1980m)ヲ減(げん)スルカ故ニ時々渡海ヲ請求スル者モ之レ有(あり)」とあって、村方の協議によって開設したい、とのことでありました。渡船賃は昼は一人三厘(さんりん)、夜は一人八厘、風波の節は、一人一銭五厘としていました。この渡船は同年の三月五日付で許可がおりています。

 川上眉山は、この船を利用して小網代へ渡ったのでした。街道を行くよりも約2Kmも減らして行くことが可能なら渡し賃を支払っても利用したくなりますね。

(つづく)
 

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