1936年に開所し2000年、64年の歴史に幕を下ろした松竹大船撮影所。日本映画の黄金時代を担い、「大船調」とまで言われた特色ある作品が作られた撮影所の面影を今に残すものは少ない。
1957年に松竹株式会社に入社し、大船撮影所時代に「東京物語」(53年)などで知られる小津安二郎監督(1903〜1963)の撮影助手として「彼岸花」(58年)、「お早よう」(59年)、「秋日和」(60年)に携わった兼松さん(北鎌倉在住・78歳)に当時の話を聞いた。
「映画のすべてを学んだ場所」
撮影所の周りは田んぼ
「牧歌的な雰囲気が漂う良い撮影所でした」と話す兼松さん。ビルなど高い建築物はなく、周りは田んぼ。撮影所の正門から大船駅が見えたという。
「当時は車が珍しい時代。監督やスターでないかぎり、駅から歩いて通っていました」。スタッフの中には撮影所近辺に下宿していた人も。街中を映画関係者が歩いている。そんな光景が日常だった。
「撮影所には当時1千人ほどのスタッフがいたのでは」と兼松さん。広大な敷地には桜並木があり、春になると地元住民に開放され、花見客で賑わっていたという。
鎌倉女子大学正門近くにあるそば屋「浅野屋」と栄区にある中華料理屋「でぶそば」は当時からある数少ない飲食店。「毎月25日になると浅野屋とでぶそばの店主が正門で待ち構えていてね。みんなのツケを回収するためです」と笑いながら話す。松竹の撮影所が大船に建てられると聞き、東京から移ってきた店もあった。「大船の街は撮影所で経済が回っていたかもね」。
「特別な現場だった」
兼松さんは、大船撮影所にいた13年間で73作品に撮影助手として参加。小津組では3作品に携わった。
他の監督だと撮影が深夜まで終わらないこともあったが、小津監督はきっかり午前9時から午後5時までで終了。日曜日も必ず休みだったという。
撮影現場も特別だったと振り返る。「怒鳴る人がいなかった。むしろ、話している人がいるとどこからともなく注意された。雰囲気を乱さないよう皆が気をつけていた」。カメラレンズをのぞき込む背中は大きく「巌のようだった」と畏敬の念を込めて表現する。「私を含め製作スタッフからも『先生』と呼ばれていたのは小津監督だけでした」。
世界のOZU
大船撮影所を経て、映画やCMの世界でフリーの撮影監督として活躍している兼松さんには、今でも強い印象が残っている出来事がある。2010年、イタリア・ローマで開かれた世界中の撮影監督が集まる会に招かれた時のこと。現地で「彼は小津監督のアシスタントだったんだ」と紹介されると周りがどよめき、会場にいた50人近くの撮影監督が総立ちで拍手を送ったという。「小津監督の認知度の高さを思い知った。凄い人の近くにいたんだとその時再確認しました」と話す。
兼松さんにとって大船撮影所とは―。「青春だったし、映画について全てを学んだ場所。日本映画界にとっても大きな財産だった」。
その大船撮影所は2000年、閉鎖した。「跡地にできたイトーヨーカドーの屋上から撮影所跡を見下ろした時は涙がでました」と兼松さん。「小津監督が大船にいた。そのことだけでも多くの人に知っておいてほしい」。そう穏やかに話した。
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