鎌倉を愛し、鎌倉で働く人たちの「ワークスタイル」を紹介するこのコーナー。今回登場するのは、ジュエリーデザイナーの菅沼知行さん。菅沼さんは独創的な作品を次々と発表し高い評価を受ける一方、業界の発展や後進の育成にも力を注いできた。その創作の原点には、ある宝石との出会いが。「石の魅力を最大限に引き出す」ことを求め続けるその姿に迫った。
菅沼さんは1949年、鎌倉生まれ。幼い頃から洋画を学び、高校3年生の時にはモダンアート展で入選するなど、その才能は周囲も認めるところだった。
絵画教師の勧めもあり、高校卒業後はファッションデザインの専門学校へ。しかしここで挫折を経験する。「数カ月単位の流行を追う世界に、どうしてもなじめなかった」と学校を辞め、その後は進むべき道が見つからない日々が続いた。
人生を変える出会いがあったのは21歳の時。ジュエリーデザイナーの山田礼子さんに師事し、彫金の技術を学ぶことになった。「もともとモノづくりは好きだったし、性に合っていたのかも」とコツコツと努力を重ねながら技術を習得。銀製品のアクセサリーや帯留めなどを制作した。
宝石のとりこに
そんな20代後半、もう一つの出会いが訪れる。知人から見せられたある宝石に、激しく心を動かされた。
その宝石がブラジル産の「アクアマリン」。文字通り海のように深い青に、吸い込まれるような魅力を感じたという。「世の中にこんなに美しい石があるなんて、と衝撃を受けるとともに、それを生かした作品を作りたいと思うようになりました」。
これをきっかけに、本格的に宝石を使ったジュエリー制作を始めた菅沼さん。とは言え、当初は顧客もいなければ販路もない。そこで作品が出来上がると、鎌倉市内のギャラリーなどで展示会を開いた。
「ふらっと来店した婦人が作品を買ってくれて、後で聞いたら有名な作家の奥さんだった、なんてこともありました。当時からずっと応援してくれる人もいますし、鎌倉は駆け出し時代を支えてくれた場所ですね」と笑う。
その後はコンテストへの出品や百貨店での展示など、実績を重ねてファンを増やし、デザイナーとしての地歩を固めていった。
独自の世界表現
2009年から15年まで6年間、(公社)日本ジュエリーデザイナー協会の会長を務め、同協会の公益法人化や後進の育成にも尽力してきた。
現在は荏柄天神社に近い場所にある自宅兼アトリエで制作を続ける。
すでにキャリアは40年以上。それでも「これでいい、という確信は、今もないんです」と冗談めかして言う。多くのライバルがしのぎを削る世界だからこそ「自分にしかできない表現」を追い続けてきた。
こうして生まれたのが、彫金の技術を生かし、丸めた紙を伸ばしたような質感を表現した代表作「和紙シリーズ」。ほかにも絹で作ったような鞠や、岩肌に水滴が流れる様子を表現するなど、常識を覆す独創的な作品をいくつも生み出してきた。10年ほど前にはブローチとペンダントが兼用できるピンを開発し、米国で特許も取得。新たなデザインのアイデアは常に温め続けている。
そんな創作の原点にあるのは、アクアマリンを初めて目にした「あの日」と同じ感動という。「香港やドイツなど、宝石の展示会に毎年のように足を運んでいますが、今でも石に『呼ばれた』と感じる時がある。この石をもっと輝かせたい、もっと魅力を引き出したいという気持ちが湧き上がる。そういう時が一番楽しいですね」と笑顔を見せる
今後の目標の一つに鎌倉への「恩返し」をあげる。「展示会を開催したり、リメイクの相談も受け付けたり、もっと地域の人と関わる機会をもちたい」と意欲を見せている。
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