歌人・吉野秀雄(1902-67)が今年、没後50年を迎える。長く鎌倉に住み、鎌倉を詠んだ秀歌を多く残したほか、「幻の大学」と呼ばれる鎌倉アカデミアで教鞭をとり、後の文化人にも影響を与えた吉野。写生を重んじ、日常生活のなかから生まれ出る感動を率直な言葉で表現し続けた作品の数々は、時代を越え私たちの胸に響く。
吉野秀雄は1902(明治35)年、群馬県高崎市の絹織物問屋の二男として生まれた。
幼い頃から文学が好きで正岡子規らの作品に親しみ、俳句や詩を作っていたが、高崎商業学校を卒業後は慶応義塾大学経済学部に進学した。
しかし24(大正13)年、肺結核にかかって大学中退を余儀なくされ、翌年には鎌倉七里ガ浜の鈴木病院で転地療養を始める。その後、長谷の光則寺の門前でも家を借りたことなどが、鎌倉を拠点とするきっかけとなり、31(昭和6)年に小町に転居し、生涯の住まいとした。
病により経済学の道が断たれたことが、国文学を学び短歌創作へと進む後押しとなった。生涯の師となる歌人・会津八一との交流が始まり、昭和に入って以降は万葉集など古典研究に励みながら『苔径集(たいけいしゅう)』『早梅集(そうばいしゅう)』を発表した。
吉野の名が広く知られるようになるのは戦後のこと。鎌倉文士の一人、小林秀雄が46(昭和21)年に創刊した『創元』に、「短歌百余章」と題した作品が掲載された。これは44(昭和19)年8月に妻・はつ子を亡くした悲しみを歌ったもの。小学校時代からの幼馴染で、4人の子を設けた妻への挽歌は、翌年に発表した『寒蟬集(かんせんしゅう)』に収められたことで、さらに反響を呼ぶこととなった。
また戦後間もなく、光明寺に開校した「鎌倉アカデミア」では文学科で教鞭をとり、多くの青年たちに影響を与えた。
晩年はリウマチや糖尿病など多くの病に悩まされながら創作を続けたが、67(昭和42)年7月13日、その生涯を閉じた。
本紙で昨年6月から1年間にわたって「うたびと・吉野秀雄が詠んだ鎌倉」を連載した萩原光之さん(歌誌『砂丘』代表)は、最晩年の吉野に作品の添削を受けた「最後の弟子」。
吉野とその作品の魅力について「常に写生を大切にしながら、日常の生活にある感動を率直に歌い上げた、近代短歌のなかでもまれな存在」と語る。そして「最も長い時間を過ごした鎌倉でも、その名を知る人が少なくなっている。没後50年という節目に、ぜひ多くの人に知ってもらいたい」とする。
7月1日瑞泉寺で「艸心忌」
吉野秀雄を偲ぶ集いとして知られる「艸心忌」が7月1日(土)、市内二階堂の瑞泉寺で開催される。午後2時から4時頃まで。
艸心忌は吉野が亡くなった翌年に、墓のある瑞泉寺で第1回が開催されて以降、命日に近い7月第1土曜日と決められ、今年50回目を迎える。「艸心」は師の会津八一が小町の吉野の家(書斎)を「艸心洞」と名付けたことにちなむ。
例年、住職による法要読経の後、講演を実施しており、今年は歌人で愛知淑徳大学学長の島田修三さんが「私の吉野秀雄体験」と題して行う。
会費は3千円。参加希望者ははがきかメールで住所、氏名、電話番号を明記し、〒176-0004練馬区小竹町1の53の9事務局吉野さんまたは【メール】soshinki@gmail.comに送付を。問い合わせは【携帯電話】090・7416・1140吉野さんへ。当日参加も可能。
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