鎌倉と源氏物語〈特別編〉 運慶との関わり東国と源頼朝と北条時政と
今回は閑話休題。11月26日(日)まで東京国立博物館で開催中の「運慶展」にちなみ、運慶と鎌倉の深い関係を紐解きます。
最初に東国で運慶を使ったのは北条時政でした。本拠地伊豆韮山で北条氏の氏寺である願成就院を建立した際のことでした。
源頼朝は鎌倉幕府を開くと父義朝の供養のために鎌倉に勝長寿院を建立し、その造仏に奈良仏師成朝(せいちょう)を招きます。宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を作った定朝(じょうちょう)の系譜の仏師です。時政はその翌年の1186年に運慶に阿弥陀三尊像他の依頼をしました。
和田義盛が引き続き運慶を用い、横須賀市芦名にある浄楽寺の阿弥陀三尊像他の仏像を作らせました。続いて運慶は足利義兼に用いられたようです。それが足利市樺崎寺(かばさきじ)下御堂にあったらしい大日如来坐像で、先般オークションに出されて真如苑が落札しました。
運慶を含む奈良仏師慶派の活躍は1180年の平重衡による南都焼打に起因します。この時、東大寺と興福寺の大多数の伽藍や仏像が灰燼と化し、その復興に携わったのでした。時政は興福寺に縁戚関係のある僧がおり、それで奈良仏師と繋がりができたようです。
愛知県岡崎市瀧山寺(たきさんじ)に聖観音菩薩立像があります。これは頼朝亡き後、従兄弟の僧・寛伝(かんでん)が頼朝の菩提を弔うために作った等身大の仏像で、胎内に頼朝の髭と歯が納められているとのこと。仏師は運慶と長男湛慶(たんけい)で、荘厳金具が永福寺跡(二階堂)の調査で発掘された仏像の荘厳金具と似ているため、運慶は永福寺の仏像も作ったのではと推測されています。 織田百合子
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