第15回「赤羽根」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
赤羽根では、明治時代初期に村内を15に区分し、田、畑、宅地、山林などを残らず描いた絵図と台帳をつくり、一番から始まる通し番号を付けました。その絵図を「字限図」といいます。それぞれに「一図」、「二図」…「十五図」と全15枚を名付けました。小和田小の北辺りのバス停「六図」はその名の一つです。
赤羽根村は、北側の丘陵に沿って東西に細長く集落が開け、その南側には水田が広がっていました。村の南側の大山道(県道伊勢原藤沢線)沿いには、点々と俳句や短歌を刻んだ碑があります。
バス停「六図」の近くに共同墓地があり、7基の墓石に辞世と思われる句が彫ってあります。その中で、1840(天保11)年没の春登(島村氏)の句を紹介します。
土器(かわらけ)は土に戻って青葉山
この墓地の約200メートル西側の共同墓地にも、3基の墓石に句があります。
また、宝積寺の墓地にも江戸時代の歌人として知られる村野もと子(小沢氏)とその母白羊、兄飯哥などの墓石に歌や句があります。
赤羽根村の範囲には紹介しきれないほど沢山の句があります。19世紀になると、当地の文化が豊かだったことを知ることができます。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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