地域編 最終回「下寺尾」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
村名の由来は二説あります。一つは1841(天保12)年編纂『新編相模国風土記稿』で「ここから北の方角、約8Kmを隔てて寺尾村という村がある。そこは正保のころ(1644〜47)、上寺尾村といっていたので、その村に対して下寺尾村という」とあるものです。他方は1879(明治12)年にまとめられた『皇国地誌』の「長徳年間(995〜998)、詔(みことのり)に基づいて村内に七堂伽藍を建て、龍沢山海円院と称した。その寺の尾ということから村の名が付いた」というものです。
今日、七堂伽藍の存在が確認されている近くに記念碑が立っています。その七堂伽藍跡から古代の布目瓦や土器などが出土し、伽藍の遺構も確認されています。瓦は平安時代のものが多く、奈良時代にさかのぼると考えられるものもあります。市教育委員会では、寺院遺構を確認するための調査を行いました。
江戸時代、村の領主は旗本の松平、永井、筧の三氏でした。白峰寺は『新編相模国風土記稿』によれば、松平忠政の孫、重継が開基とあります。本堂の裏手の少し高いところに笠付きの立派な墓塔が7基並んでいます。向かって右から4基目の塔が重継の墓塔です。【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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