茅ヶ崎の轍(わだち) 第35回 道編 「病院道・南湖院道」協力/茅ヶ崎市文化資料館
1899(明治32)年、南湖の海岸近くに結核療養所として南湖院が開院しました。南湖院創立者・高田畊安は、1861(文久元)年に丹後国京田村(京都府舞鶴市)で生まれ、京都府立医学学校を経て東京帝国大学医学部を卒業後、東京・神田に東洋内科医院を開設。1898(明治31)年に茅ヶ崎駅が開業すると南湖の海岸沿いの土地約1万8350平方メートルを購入し、翌年同医院の分院として南湖院を開院しました。
茅ヶ崎駅に南口がなかった当時は北口に待合所が設けられ、患者や見舞客は人力車に乗って同院を目指しました。人力車は大踏切(現・ツインウェイヴ)を渡って茅ヶ崎小の前を通り、六道の辻へ出ました。そして伴田の坂を上り住吉神社前を通り抜け、同院東門に到着。これが「病院道」「南湖院道」と呼ばれた道です。
同院は「東洋一の結核療養所」と言われ、医療機関の見学者も多数訪れたといいます。また、敬虔なクリスチャンであった高田は全国の同業者に絵はがきで招待状を出し、地域の人も招いた盛大な医王祭(南湖院のクリスマス)を催しました。その楽しかった思い出は、今も南湖の人たちに語り継がれています。
【参考文献/茅ヶ崎市史】
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