茅ヶ崎の轍(わだち) 第37回 道編 「東海道の七里役所」協力/茅ヶ崎市文化資料館
江戸時代、東海道の藤沢宿から平塚宿までは三里半(約13・7Km)あり、この間に「四ツ谷」「牡丹餅」「南湖」「八幡」の4立場が設けられていました。立場は、宿場と宿場の間に開かれていたところから「間の宿」ともいわれ、茶屋などが並び、旅人や馬方たちが一時の休息をとりました。
「四ツ谷立場」は現在の藤沢市内、「八幡立場」は平塚市内ですが、「牡丹餅立場」は小和田・菱沼村内、「南湖立場」は茅ヶ崎村内でした。
「牡丹餅立場」は、藤沢宿から一里半(約5・9Km)のところにあり、ここには茶屋のほかに紀伊藩(現・和歌山県)の七里役所がありました。七里役所とは、江戸時代の飛脚の一つ、七里飛脚の継立場のことです。当時の飛脚の制度には徳川幕府公用の継飛脚、諸藩が江戸の藩邸と領国との連絡を密にする必要から設けた大名飛脚、民間で営業した町飛脚がありました。七里飛脚は大名飛脚に位置付けられ、幕府親藩の福井・津山・姫路・高松・松山藩などが行いました。継立所が七里(約27・5Km)ごとに設けられていました。中間を役人として配置し、藩用の書状などをリレー形式で送りました。
【参考文献/茅ヶ崎市史】
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