茅ヶ崎の轍(わだち) 第41回 道編「美濃部の坂と伴田の坂」 協力/茅ヶ崎市文化資料館
鉄砲道を中海岸自治会館から西へ50m程進むと、南方への坂道があります。近くに美濃部達吉・亮吉の居宅があったことから「美濃部の坂」と呼ばれています。達吉は明治〜昭和時代の憲法学者です。大正デモクラシーといわれる時代背景の下で明治憲法の解釈論争が起こり「天皇機関説」を唱えました。議会から非難を浴び、貴族院議員などの要職を辞職しました。達吉の子・亮吉は経済学者で、1967年に東京都知事となりました。軽妙な語り口と「美濃部スマイル」で知られています。達吉・亮吉や家族が過ごした居宅は今はなく、住宅地となりました。
鉄砲道に戻りさらに西へ進むと、消防署の先に急坂があります。この坂道は大正・昭和前期の俳優・友田恭助(本名・伴田五郎)の別荘を囲むようだったので「伴田の坂」と呼ばれていました。恭助は13歳の時、近隣に別荘があった土方与志とともに少年劇団「南湖座」を作り、別荘裏の土手を舞台に地元で公演を行っています。土方が開場した築地小劇場の運営に参加した恭助は、「築地座」を経て「文学座」を結成しました。恭助夫妻が使用したプールが、この坂の近隣に近年まで残っていました。
【参考文献/茅ヶ崎市史】
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