「実家もまちも跡形もなく、想像を絶する光景だった。全てがきれいさっぱり流されていて、言葉も出なかった」。生まれ故郷の岩手県山田町へ医療支援に向かった山崎啓一医師(平塚共済病院医療連携センター長兼呼吸器内科部長)は話す。
山田町は、海に面した漁業や養殖が盛んな人口2万人ほどの町。東日本大震災で津波による壊滅的な被害を受け、死者・行方不明者は約850人にのぼる。
すでに両親が他界し、盆や正月に帰るだけの実家は人的被害の心配はなかったが、生まれ育った町には他にも親戚や友人が暮らしている。山崎医師はすぐに連絡を取ろうと試みた。
しかし、県立病院や町役場など電話が一切通じず連絡の手段がなかった。正式な医療支援の要請を受けることもままならず、現地までの道路の状況もわからない。それでも「何か力になりたい」と有給を申請し、3月末に夜行バスで単独山田町へ向かった。
「亡くなった方の中には中学の同級生や親戚など、知った顔もありました」と沈痛な面持ちで話す。県立病院は壊滅し、3件あったクリニックも残ったのは1件のみ。薬も医療機器も医者も、全てが不足していた。
深刻だったのが病気の感染。同じ空間に大勢が集まる避難所では、インフルエンザやノロウィルスなど、一人が感染するとあっという間に広がってしまう危険がある。常備薬が流されてしまい慢性的な症状が悪化してしまうケースもあった。
「個人で向かったので出来ることは限られていたし、車もなかったので最初は実家近くの避難所数ヵ所で健康管理をするのが精一杯だった」と振り返る。「必要があれば病院に医療支援の要請を」と町に伝え、一度故郷を後にした。
その後、山田町から正式な要請が病院長宛に出され、医療チームを編成して4月13日から17日と4月29日から5月5日の2回、支援に赴く。土地勘のある山崎医師は車で各避難所を回り、健康管理や薬の処方、心のケアなどに努めた。
「最初の頃に比べて笑顔が戻ってきたように感じた」とほっとした表情を見せる。しかし、現地では撤退を始めている医療支援チームもあり、まだまだ医師の力は必要だという。
「また行きたいと思う」。故郷のために少しでも力になりたいという思いを口にした。
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