1945年(昭和20年)7月16日の平塚空襲をはじめ、戦争の記憶を後世に伝えるため、平塚市は7月8日〜8月18日を「平和月間」とし、市内各所で様々な平和関連事業を行っている。13日には、花水公民館で「平塚空襲の体験をきく会」が開かれた。
「空襲の体験をきく会」の語り部となったのは、「平塚の空襲と戦災を記録する会」で活動する杉山喜一さんと江藤巖さん。
空襲は7月16日午後11時32分から翌未明にかけ、B29攻撃機133機が平塚上空から44万7716発の焼夷弾を投下。7678戸を焼き、328人が亡くなった。市は当時、軍需産業の集積地だったことから標的にされたとされている。
当時13歳だった杉山さんは馬入の自宅で空襲警報を聞いた。布団を被って近所の寺に逃げ込むと、トタンを破くような音とともに焼夷弾の雨が迫った。逃げながら後ろを振り返ると、小学校1年生の妹が焼夷弾の炎に包まれていたという。
翌日、リアカーに妹を乗せ、瓦礫をどかしながら病院を目指したが、到着した時には妹はすでに亡くなっていたという。杉山さんは「平塚で起きたことを、子どもに、お孫さんに語り継いで欲しい」と訴えた。
江藤さんが戦災にあったのは12歳の時。西の方角に火柱が立つと、集中豪雨のような音が響いた。自宅の防空壕に逃げ込んだ直後、焼夷弾が投下。中にいた姉が足を切断し、自身と弟は炎に包まれ大火傷、妹はその場で亡くした。
逃げる道すがらに姉が出血で息をひきとり、一緒に病院へ行った弟も治療を待たず亡くした。江藤さんも1週間意識がなかったという。江藤さんは「翌日の朝までに家族3人を亡くした」と視線を落とし、戦争の酷さを語った。
「後世に伝える義務ある」語り部の杉山喜一さん
「体験をきく会」の語り部となった江藤巖さんは「家族でまず女性と子どもが犠牲になった。子どもに事実を伝え、戦争をなくすよう訴えたい」と信念をのぞかせる。杉山喜一さんも「戦争の残酷さはいつまでも消えない。体験を後世に伝える義務がある。私の天命とも思う」と話した。
体験を聞いた小学6年生の男子児童は「戦争は怖い。やってはいけないと思う」と感想を述べた。
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平塚市は平和月間で、次のような事業を予定する。▽原爆と人間展/8月1日〜7日、市役所1階。広島平和記念資料館所有の絵など展示▽平塚空襲展/8月1日〜9月5日、博物館。空襲関連の資料を展示▽市民平和の夕べ/8月18日、総合公園大池周辺。午後6時30分〜8時、灯ろう流しやすいとんの試食など。
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