日本国憲法の制定過程から学ぶ 2・1ゼネストの禁止指令と第1回参議院選挙 〈寄稿〉文/小川光夫 No.100
戦後、日本政府は激しいインフレと食糧欠乏、それに伴う世論からの攻撃や労働攻勢に悩まされていた。共産党は「米よこせ大会」や「食糧メーデー」など闘争につぐ闘争を積み重ね、さらに新聞通信放送労組、日本教職員組合などを加えて大規模闘争を展開した。「もはや労働運動は、単なる経済闘争ではなく、政治闘争である」とは細谷松太産別事務局長の言葉である。一方、社会党も中央執行委員会を開き、吉田内閣の不信任案提出方法を協議していた。こうした状況下で吉田茂は、進歩党だけでなく社会党も加えて挙国連立内閣を模索した。しかし、そうした最中にも労働攻勢の嵐は吹き荒れ、1947年1月18日、全官公庁共同闘争委員会は全国一斉のゼネスト(2月1日)突入を宣言した。GHQにコネクションのある共産党の野坂参三は、GHQは2・1ゼネストを絶対に弾圧することはできない、と豪語していたことから全国で共産党を中心とする争議やデモが繰り返された。いたるところに赤旗が靡いていてそれはまるで革命前夜のようであった。
1月30日、GHQ経済科学局長マーカット及び労働課長コーエンによるゼネコンスト中止要請にもかかわらず、全官公庁共闘委員会はスト決行を再確認するだけで応じようとしなかった。しかし翌日、マッカーサーは2・1ゼネストの禁止指令を発した。この頃からマッカーサーは、米ソ冷戦を見据えて共産主義勢力の排除も考えるようになったと云われている。
しかし、社会主義左派のホイットニー民政局長などの意見もあることから、マッカーサーは社会党政権の誕生を期待するようになった。赤ら顔のホイットニーはマッカーサーの筆跡と見分けが出来ないほどに真似るなどマッカーサーを崇拝していたと云われ、マッカーサーもそれを快く思っていたに違いない。民政局(GS)が三井生命ビルの6階にありホイットニーの部屋がマッカーサーの執務室の隣にあったことを考えればホイットニーのマッカーサーへの影響力は伺いしれる。
1947年2月7日、マッカーサーは吉田内閣に書簡を送り「衆議院を解散して総選挙を実施せよ」との指令を発した。これは第一次吉田内閣が政権をとってから約10カ月後の出来事であった。このことにより自由党内部には新党運動が表面化したが、幣原喜重郎進歩党総裁が新党結成に反対したことから、今度は社会党との連立工作が行われた。この連立工作によって政局はおよそ一ヶ月停滞したものの2月24日の第92回会議では、吉田内閣は新憲法の精神や規定に則って、地方自治法、財政法、教育基本法、学校教育法、国会法、労働基準法など各種の法案を成立させた。
|
|
|
|
|
|