二宮ゆかりの画家 連載第1回 二見利節(としとき)・その生涯
利ちゃん
大正十二年十一月吾妻小学校(二宮小学校)の六年男組に横浜から一人の生徒が転校してきた。二見利次といった。ちびっこで、笑うと右の八重歯がかわいかった。皆、利ちゃんと呼んだ。
利ちゃんの父は釜野の出身、母は越地の生まれで、茶屋町の「みのや」という屋号の旧家に両養子として、家を継がれた夫婦であった。父は鎌倉師範学校を卒業して教職に就かれ、若くして横浜の小学校の校長を務めておられた。関東大震災のあと、多忙がもとで、四十二歳の若さで死去された。母は中学生であった長男の勝治を横浜に残して、利ちゃんの姉と妹二人弟二人を連れて、茶屋町の家に帰ってこられたのである。
さて六年生男組の受け持ちは石井先生で、この春鎌倉師範学校を卒業されたばかりのかたである。だれかれの区別なく全生徒が理解できるまで教え込む方針で教壇に立っておられた。
特に図画は校外写生を主とされ、一か月に一枚仕上げればよいという、これまでになかった授業であった。利ちゃんが初めて加わったのは、第二回目の写生で吾妻堂の前の川辺を描くときだった。松本庵の前からだらだら坂を下って、原田橋(木橋)を渡るとすぐ堰があって、大きな欅の木が何本も枝を伸ばしていた。川の西側は小さな竹が密生して、川の土手を形づくり、それに田圃が続いていた。
ここで利ちゃんの写生を初めて見た。青、黄、緑とクレヨンを大胆に楕円に塗っていくと、みごとな竹やぶができ上がった。利ちゃんは絵がうまいなあと皆驚いた(このときの絵が、利節が沖縄で捕虜生活中に描いたジャングルの描き方とよく似ていることを思い出す)。
※「二宮町近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
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二宮町にアトリエを構え、創作活動に打ち込んだ洋画家二見利節(1911〜1976年)の生涯を紹介します。
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