二宮ゆかりの画家 連載第9回 二見利節(としとき)・その生涯
春陽会退会、召集
前年春陽会会友となっていた二見は、井上三綱についての兄弟子に当たる本荘赳の出品問題がもとで春陽会を退会して、二宮に帰り川勾神社の神主の代役を務めていた。
昭和十八年長女矩子が出生して間もなく、丙種であった彼に召集令状が届いた。早速訪ねてみるともうおおぜいの画友が集まって画論が大声で闘わされていた。酒もだいぶ回っているらしかったので、芳枝さんだけにあいさつして帰って来た。そのとき、室内から聞こえてきたのは「吉野の桜は右から流れるような豪壮な構図は実にみごとなものだ」という声、誰が話したのか分らないが、彼の描いた「桜咲く頃」のことかなあと思ったが、後いろいろ尋ねてみたがついに知る由もなかった。
利節は小柄であったので輜重兵として満州に渡った。物を運搬する軍務である。体力のない彼らにとっては苦痛の極にあった。ある日彼は突然、当番将校から呼び出され、第一装の軍服に着替えさせられた。小さい彼には合う軍服などない。ぶくぶくの服を着て隊長の部屋に連れて行かれた。そこには師団長が来ていた。話によると梅沢に在住の赤星氏(当時ゴルファーとして有名な人)の依頼で、わざわざ二見二等兵に面会に来たとのこと。いろいろ話した後、部隊の閲兵に移ったのだが師団長の後をだぶだぶの服を着た二見二等兵のついて歩く姿は、格別のものであったと思う。軍隊とはなんとも不思議な所である。このことがあって二見二等兵は即日衛生兵に配置転換され、毎日のビンタも無くなったと彼は話した。その後南方戦線に転属され、最後に沖縄の小島の警備の任に就いた彼は、連日の艦砲射撃に遭い、右耳の鼓膜を破られてしまう結果となった。住民も兵隊も皆壕に入って難を逃れていたが、アメリカ兵の降服の呼びかけに従って、壕を出ていく住民は、次から次へと兵隊によって撃ち殺されてしまった。見かねた二見は兵隊たちを説得し、自ら壕を出てアメリカ兵と交渉し、住民と兵隊の命を救ったという。
当時を思い出しながら口を引き締めて話す彼の姿が目に焼きついている。ここから彼ら兵隊たちの捕虜生活が始まるのである。昨日に変わる今日の生活、暇にまかせてスケッチを続けた。これを見たアメリカ兵で絵の教えを望むものが数を増して、絵画教室ができ上がった。二見先生である。一つの建物が与えられて将校待遇である。生活物資は持ち込まれる、食糧はじゅうぶんに配布される、ドルは置いていく、で彼の捕虜生活は戦闘中の生活に比べ天国のようであったと話していた。
※「二宮町近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
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3月29日