二宮ゆかりの画家 連載第11回 二見利節(としとき)・その生涯
アトリエ再建
アトリエ焼失後、家族は元町の勝負の前の小さなアパートに移った。相変わらずの貧乏暮らしが続いた。部屋に閉じこもって、画用紙への挑戦である。絵具もチューブの使い残しをさいて彩色、子供のクレヨンの使い残しも全部役立てた。思索から、デッサンヘ、デッサンから思索へと、毎日が繰り返された。他人から見れば貧乏暮らしも、彼にとってはいっこうに関知しないのである。この年の四月には第三十四回国画会展に、小品ながら「工作机」等が出展されている。
翌三十一年に入ると親友の杉岡氏の協力を得て、アトリエの再建にかかった。焼け残った黒焦げの木材を利用して、骨組みだけは大工に依頼、あとは全部自分たちで造った。黒焦げの木材を丁寧に炭を落として、これで家具も作った。窓も全部自分たちで造った。強風が来れば吹き飛ばされそうなのであった。屋根は古トタンでふいてあるだけ、夏になると暑さが屋根からしみ通って来る。彼は裏の竹やぶから青竹を切って来て、屋根の上に乗せておく。これが彼の暑さ除けである。入口のドアもへなへなとした手製であった。中に入るとすぐに、囲炉裏ができていた。焼けぼっくいを丁寧に磨いて、まるで神代杉で造ったかに見えた。
あるとき彼を訪ねると、中央部の北側の柱に竹が一本出ていた。葉もついている。「これは」と尋ねると「下から出て来た」と平然とした答え、「画家は違うな」と思った。この年の国画会展(第三十一回)に小品が出品されている。アトリエの東側は壁一面に小さく仕切った棚ができていて、ここに、デッサンや小品がいっぱい差し込んであった。昭和三十三年になっても住居は依然元町のアパートであった。第三十二回国画会展に「静物」が出展されている。
この年、町の公民館(現在の駅前町民会館)が新築された。町民にとっては町民の使うことのできる最大の建物である。小学校の同級生の会、「大昭会」が飾り気のない公民館に絵でもどうかということで、利節に相談したところ、快く受けてくれた。もちろん無料である。彼は、早速公民館に来て三日ほど中央にたたずんでいたが、一週間の後には、板に描かれたりっぱな花の絵が届けられて来た。現在は大昭会によって額縁も改められて役場の議長室に飾られている(現在は、ふたみ記念館所蔵)。
※「二宮町近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
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