東日本大震災から2年半。復興に向けて歩み続ける被災地に小田原市は今年4月から宮城県多賀城市と福島県相馬市に、7月からは岩手県宮古市に職員を派遣している。復興の現場で奮闘する職員の様子を紹介する。
小田原市役所の西尾優貴です。私は今年の4月から相馬市役所建設部土木課へ派遣されています。業務内容は道路の維持管理や災害復旧、津波により発生した膨大ながれきの対応も行います。(相馬に)来る前は、震災の爪痕が残り、将来的な展望も立てられない状況というイメージを持っていましたが、実際は大きく異なりました。
津波で流された家屋の基礎部分が立ち並ぶ沿岸部を目の前にすると、壮絶な状況だったことが想像できます。ただ、こうした中でも街全体が不思議と前に向かって進んでいく明るさのようなものを感じました。
震災の基本的な対応は地域のそれぞれの実情に鑑み、地方公共団体が計画や現場対応を行います。相馬市は震災直後の初動対応が早く、今年4月の段階でがれきの処分や公共施設の災害復旧の見通しが立っており、計画的に復興に向かっていることが着実に前進している印象を与えます。
行政の政策的な部分以上に、被災地に対するイメージを変えてくれたのは、現地の人たちの明るい雰囲気です。たくさんの方が被災のエピソードを聞かせてくださるのですが、やはり当日の状況は想像を絶するものがあります。多くの人に共通しているのが、そうした大変な経験にとらわれず、自分たちの未来を考えていることです。「県外でも通用する産業を取り戻す!」「福島県だからこそ発信できる新しい文化を作る!」「震災でお世話になった人に恩返しをする!」など、時には大きな夢を語り、また時には現実的な理想を掲げています。こうした一人ひとりの想いが相馬市を支え、明るい印象を作っているように思います。
しかし、原発と放射能問題の解決は未だ先行きが見えない状況です。特に水産業は、これまでかろうじて試験操業を実施し、風評被害に負けないでがんばっていこうという矢先に汚染水流出問題が起きました。福島県水産試験場公表のモニタリング結果では放射性物質不検出とされながらも操業は自粛となり、関係者は自分たちがどのように進めばよいのか、怒りや戸惑いを感じています。
震災直後、全国からさまざまな形で被災地支援が行われ、今日まで復興に向けて進んできました。そこで重要だったのは、沢山の人が現場を訪れ「支援する人」と「される人」という線を引くのではなく、一緒になって問題を解決していくということだったと思います。今ではそこで生まれた新しいつながりから、復興を模索する動きもあります。
私も、相馬で出会った方、大変な状況のなか受け入れてくれた方に恩返しができるよう、震災以前よりも安心して暮らせるまちづくりに取り組んでいます。(続く)