終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第18回は、旭丘高校の理事長で、戦時中に作家・三好達治氏とともに小田原空襲を経験した水野浩さん(77)。
「戦争は小さな自分にとって重い体験だった。これが自身の教育の原点となっている」。そう語る水野さんは東京の下町生まれ。当時、国民学校3年になると学童疎開をしなければならなかった。それが嫌だった水野さん一家は学童疎開を避け、2年時に母の実家の小田原十字町(現南町)に移り住んだ。
小田原に越してきてからは、学区外の城内小学校へ通った。掟や決まりを守ることが当たり前だった時代、学区外に通うことが生意気という印象を与え、水野さんは学区の子どもたちからいじめにあった。生活は貧しく、食糧がないため母が着物など家財を農家の人と物々交換し、調達していた。また、子どもながら水野さんは、兵器として利用されていた風船爆弾の原料となる楮(こうぞ)の皮むきを手伝った。このような体験から、育ち盛りの水野さんは「戦争は嫌だなあ」と感じていたという。
家族とともに暮らしていた十字町の借家の2階には当時、作家・三好達治氏が家族と住んでいた。三好氏の娘と同級生で、一緒に通学した。
1945年8月15日。小田原が空襲の標的となった。水野さんと三好親子は諸白小路を通り板橋方面へ逃げた。その時水野さんは夜具を被っていたが、それを見た三好氏は、「白いものは標的になりやすい」とそれを破ったという。「なんて繊細な人なのだろう」と当時の記憶として強烈に残っているそうだ。
戦時中、毎日学校で行われていた天皇陛下を拝む習慣は終戦後、突然なくなった。教師たちは敗戦の理由を文化や科学の差で負けたとし、その重要性を説くようになった。「今までと違う」ことからも、終戦を感じ取っていた。
現在は一私学の理事長として教育に携わる。戦時中に体験した数々の記憶が、今の教育に少なからず影響を与えている。「未来を拓く子どもたちに一粒の平和の種子を蒔いていきたい」と、自身の体験を基に、これからの教育現場を考える。
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