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語り継ぐ戦争の記憶 ―シリーズ 終戦70年㉖―

文化

公開:2015年8月22日

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高木 馨さん(77)1938年生まれ 市内城山在住
高木 馨さん(77)1938年生まれ 市内城山在住

 終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第26回は、1486人が犠牲となった長岡空襲を生き延びた高木整形外科医院の院長・高木馨(かおる)さん(77)。

 生涯忘れることのできない日――。1945年(昭和20)年8月1日をそう語る。この日の午後10時半頃、新潟県長岡市はB29の爆撃を受けた。小学2年生だった高木さんは戦火を逃れるため、家族と共に無我夢中で走っていた。

 聞き慣れた警戒警報とは違い、この日は空襲警報が鳴り響く。と同時に、地震と雷が同時に起きたような轟音と大きな揺れに驚き、急いで家から外へと飛び出した。そこで目にした一面に広がる火の海。防空頭巾をかぶり、家族で逃げた。田園地帯を目指し進む道中には、B29と爆撃の轟音に加え、冷静さを失い大人も子どもも泣き叫ぶ声が響き、犠牲になった人々の死体があちこちに転がっていた。

 「あっちに落ちる。こっちに逃げろ」。3つ違いのすばしっこい兄が焼夷弾の落下地点を予測して叫び、家族を安全な方へと誘導した。のどかな田園風景が一変。空を黒々と覆い尽くす100機を超えるB29からは次々と焼夷弾が落とされ、焼け野原と化した一帯は真夜中にも関わらず昼間のように明るかった。「真っ赤な光を放ちながら落ちる無数の焼夷弾を見て、恐怖を通り越し、きれいとさえ思えた」と呆然自失となった当時を振り返る。鼻にこびりつく焦げた嫌な臭いと、泣き叫ぶ人の声は70年経った今でも忘れることはできないという。

 この空襲で家を失い、8Kmほど離れた父の友人が営む農家の物置での生活が始まる。お金は持っていても意味がなく、物々交換で生計を立てた。万一に備え、家の庭に埋めてあった甕の中には母の着物が入っており、それを食料と交換し、飢えを凌いだ。「食料のない時代。小川で獲ったドジョウも食料だった」

 時折米軍の飛行機が現れ、上空からビラを撒いていった。「日本は負ける」といったメッセージが書いてあったが、日本の勝利を信じていた誰もが理解できず、そのビラを持っていると大人たちが慌てて回収したことを覚えている。生きていたことは「ただ運が良かっただけ」。そういって口を一文字に結んだ。

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