終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第31回は、120年前から現在の本町で商売を営む五十嵐写真館の五十嵐史郎さん(84)。
今でも大切に保管するアルバムには、戦死した兄弟の写真が綴じられている。
1945年2月14日、五十嵐家の次男で史郎さんの兄・誠夫(のぶお)さん(当時20歳)が、飛行服を着たまま帰宅した。誠夫さんは海軍の飛行隊に入り、特攻隊員に。訓練していた茨城県土浦から基地のある山口県岩国へ電車で向かう途中、小田原に立ち寄った。
中学生だった史郎さんはその時の様子を「精悍でかっこよかった」と振り返る。ただ、「異様な格好で帰ってきたので、これが最後ということはみんな理解していました」。わずか2時間ほどの里帰り。特別な会話をすることなく、いつも通り家族で食卓を囲んだ。そして、父の登さんと誠夫さんは自宅のスタジオへ。ゴーグルをつけ飛行服に身を包んだ息子に、登さんはシャッターを切り続けた。撮影を終えると「『元気で』と兄に声をかけ、軒先で見送りました。涙を流すことなくいつも通りに」(史郎さん)。それから約3カ月後、誠夫さんは命を落とした。
家業を継ぐため、名古屋の写真店で修業していた長男・真雄さんも出征、帰らぬ人となった。そして、四男の史郎さんが老舗を引き継いだ。
「昔から私たちにとって写真は特別な存在だった」(史郎さん)。戦局が悪化すると、自宅の敷地につくった防空壕に逃げ込んだ。その際、唯一持ち出したのが家族写真。アルバム15〜20冊を、避難する度に出し入れした。「アルバムだけはしっかり持っていくという行為に、家族のだれも疑問を持たなかった。職業病なのかもしれませんが」と史郎さんは語る。
五十嵐写真館では戦時中、出兵する際の家族写真を何枚も撮影してきた。飛行服で写真に収まった兄の姿は、遺影として今も自宅に飾られている。「写真は歴史を刻むもの。親父さんも想いは同じだったのではないでしょうか」
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