5月14日、小田原城北工業高校のバレーボール部が関東大会出場を決めた瞬間、濱畑充広顧問(56)の目から涙がこぼれた。定年退職まであと4年。指導者として35年目で迎えた初の経験に、「ボールを追うのをあきらめたら終わりと言い続けてきたけれど、あきらめなければ本当に良いことがあると生徒に教えられた」。
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1977年、玉龍高校3年時にバレーボールの鹿児島県代表として岡山県で開催されたインターハイに出場。予選を勝ち上がるも、決勝トーナメントでは1回戦で敗退した。
帰郷後に引退。目標を失ったことによる虚無感に苛まれる日々を過ごすなか、思い出すのは大観衆を前にプレーした快感だった。「中学時代は補欠だったけれど、高校では厳しい練習に耐えてレギュラーの座をつかみ、全国大会に出場できた。この感動を伝えるために指導者になろう」。目標が定まると受験勉強に励み、日本大学に進学。体育学科で学び、神奈川県の教員採用試験に合格した。
念願が叶って歩み始めた指導者の道。生徒たちにも全国の舞台に立つ感動を味わってもらいたいと、バレーボール部の顧問として熱血指導が続いた。
だが、そう簡単にはいかなかった。14年間在籍した茅ケ崎高校では、強豪ぞろいの湘南地区を勝ち上がることが精一杯。それどころか自らの指導力を過信するあまり、「言うとおりやらないから勝てないんだ」と敗戦の責任を部員に押し付けるような態度をとっていたため、退部者も多かった。 その後、小田原高校に赴任して4年目のこと。実力あるメンバーに恵まれ、ついに全国への夢が叶うかと思われた。しかし、結果は予選敗退。「あの時、指導法におごりがあったと気づいた。生徒にはバレーの楽しさを教えられず申し訳なかった」。今なお残る自責の念。だが、当時の教え子と酒を酌み交わすと、「先生、もう時効。よくあんなに頑張ってたねと言ってくれて」。熱意が伝わっていたことが何よりうれしい。
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年間でまともに休むのは、正月だけ。そんな生活が30年以上続く。バレー一色の日々で旅行にも行けず、「家族はバレーが嫌いになったほど」。しかし今回、長女の汐里さんの提案で、妻の順子さんが関東大会の応援に山梨県まで駆けつけてくれることになった。「『鳥もつ煮を食べるついで』と言っているけれどね」。闘将に満面の笑みが浮かんだ。