終戦特別インタビュー 横浜が赤く染まった日 空襲経験者 佐藤納子さん
終戦から73年を迎える今、その惨劇を語り継ぐ人々は貴重な存在となりつつある。当時の様子を知るべく、小学生の時に横浜大空襲を経験した佐藤納子さん(82歳・港北区在住)に話を聞いた。
当時佐藤さんは、緑豊かな磯子区岡村町で暮らしていた。当時小学3年から6年は皆疎開していたが、病を患った佐藤さんは自宅に。しばらく周辺には大きな被害がなく、さほど実感が湧かぬまま時は過ぎた。記憶に残る初めのサイレンは、1945年3月のこと。皆が寝静まった頃、南区中村町を中心に爆撃を受けた。消火のために残る親や大人たちを背に、火に追いかけられながら姉と弟2人と岡村天神様の横穴防空壕へ走る。「いつ死ぬか分からないという状況。子どもながらに自分の命は自分で守らなきゃと思いました」
横浜が赤く染まった5月29日の白昼。唸るサイレンに促され、姉弟と防空壕へ。その中に響くのは、泣き声と経を唱える声、そして外から聞こえる”バリバリバリ”と街を侵す音。ギュッとつむった目には、低空飛行の機体が爆弾を落として回る様子が浮かび上がる。とてつもない恐怖とともに敵が去るのを待った。
どのくらい時が経過しただろうか。襲来が収まり外に出てみると、静まり返った街は意外にもいつもと変わらぬ風景。ふと自宅近くにあった横浜学園の丘に登り、街を見渡してみる。その景色は想像を絶するものだった。「見えるはずの、伊勢佐木町の百貨店が、ない。ただただ、焼け野原」。驚きのあまり体は動かず。燃える街を望みながら「失われたものは返ってこない。戦争ってこういうものなのか」とその恐ろしさに身を震わせた。
終戦を迎えたものの、生活は変わらなかった。食料はなく、わずかな芋類のみ。「姉が持ってきた海藻のソバはまっずくてまずくて。『だってお腹空いてしょうがないんだもん!』と泣く姉の姿が忘れられません」。空腹の子どもたちは米兵のもとへ行き、「ギブミーチョコレート!」とねだり、家主の隙を見計らっては外でふかしている芋を盗んだ。まともな食事を摂れるようになったのは、それから3年ほど経ってからだという。
「皆で優しい気持ちを持てば、平和な国になる」。大学卒業後、教鞭を執っていた38年の間は、そうした信念を持って児童に向かい合ったという。「平和教育を行うのが、人生の先輩の役目だと思っています。絶対に同じ思いをさせないように」
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