きょうで74回目の終戦記念日を迎えた。薄れゆく記憶を残すべく、当時を知る区内出身・在住者に話を聞いた。
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都筑郡田奈村奈良出身で、現在は奈良1丁目に住む鴨志田辰次さん(94)。1925年(大正14年)生まれで、14歳から川崎で営む親戚の工房で丁稚(でっち)奉公として働いていたが、41年12月に太平洋戦争が勃発。それからすぐに徴用工として川崎の軍事工場に赴くことになった。
住み込みで始まった真空管検査の仕事。寮の仲間がシラミだったことから猛烈な痒みを覚え、たまらず上司に掛け合うと、奈良の自宅から通えるようになったとか。「長津田まで歩いてね。そこから電車で1時間半くらいはかかったかな」
戦争が進むにつれ食糧難が起きていたが、農業を営む鴨志田家には十分な食料があり、時には着物と作物の交換を頼まれたことも。一方、言論の自由のなさを思い出し、憲兵の存在からいつもおびえて過ごしていたという。「『天皇』という言葉が出たら何もできない時代。見たこともないし、神様だと思っていたんだ」
最後の兵隊として
45年の4月、20歳で「最後の兵隊」として徴兵され、三重県へ。「自分は遅い方だった」と振り返るように戦争末期の時代。帯剣が7人に1人しかなかったといい、訓練もおざなりで、ほとんどが戦死者の遺品整理ばかりだったと話す。
その後は特攻隊の基地を作っていたが、その実情はハリボテの基地だった。「河原の石を運んで上から見ると塀が囲ってあるように見える。見せかけだけのものだった」
行き先わからず
7月末に配属先が変わり列車で移動することに。昼間は静かに留まり、動くのは夜間だけ。「どこに行くかはわからなかった」と話し、「九州に行った仲間は亡くなったんだ。そっちに行ったら危なかったな」と振り返る。
中央線に乗って八王子駅に着くと「これで帰れる」と喜んだのも束の間、そこで見たのは空襲を受けて燃え上がる町だった。「焼夷弾が1mおきくらいに落ちていた。蔵か何かの窓から火が燃えていた」。結局その後も移動は続き、行き着いた先は埼玉県坂戸市だった。櫓(やぐら)の望楼(ぼうろう)づくりの作業を行い、迎えた8月15日。農家でジャガイモを食べていたところに、終戦の一報が飛び込んできた。「みんな喜んだよ。はー、これで終わったんだと」
あれから74年。一変した戦後を「負けて良かった。本当に」と重く口を開く。「あのまま続いていたら徴兵で男はいなくなっていた。平和が一番。今は自由にモノが言えるし、徴兵もない。若いもんも同じだと思うよ」
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