太平洋戦争が終わり、76年。当時の経験を青葉区内在住の寺山純子さん(90)に話を聞いた。
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1944年12月、父が働いていた製紙工場の関係で朝鮮半島の京城(現ソウル)に移り住んだ。そこで日本の敗戦を知り、終戦を迎えることになる。14歳の時だった。
移住する前は家族6人で東京都の現北区に暮らしていた寺山さん。自宅はまだ空襲を受けていなかったが、遠くで焼夷弾が落ちるのを実際に見たこともある。空襲警報が鳴っては庭の防空壕に身を潜めた。戦禍が激しくなり始めた頃、京城へ。一般的な下関から釜山に渡るルートは水雷の危険があるため新潟から日本海を4日かけて朝鮮北部の港に到着。当時、日本領だったこともあり本国の移住者が多く、比較的穏やかで空襲もない生活を過ごした。「食事も日本より良かった」
姉と一緒に京城第一公立高等女学校に通い、当時日本では禁止されていた英語の授業もあったという。また、授業時間内に鉱石の雲母を削ったことも。「詳しいことは分からないが、航空機の部品に使うと聞いた」。報酬はわずかに塩大福1つ。家に持ち帰り分け合った。これでも、日本に比べたら贅沢だった。
戦時中であっても「日本は負けないだろうと思っていた」と振り返るが、1945年8月、日本は降伏した。玉音放送を聞いてはいないが、現地の様子で日本の敗戦を知った。
朝鮮人は独立を喜び、日本人に売る食料価格は2倍に跳ね上がった。日本人ばかりが通っていた女学校はすぐに休校、北部からはソ連軍に襲われないよう坊主にした女性も逃げてきて、外出できる状況ではなかった。しかし、父の仕事の都合で、すぐに日本へ帰ることができず、数カ月は不自由な生活が続いた。
帰国の途についたのは翌年1946年1月。京城から釜山に向かうため牛や馬が乗るような、昼間でも暗い貨物列車に乗った。停車中に外の草むらで用を足したが、すぐに戻って鋼鉄の扉を閉めないと暴徒が押しかけてくる危険があると聞いていた。運よく襲撃されることはなかったが、移動中に気を緩めることはできなかった。釜山に着くと、人がびっしりと並んだコンクリート同然の床で一晩過ごし、貨物船の船底に乗り博多へ。闇市が並んでいた光景を覚えているという。
住んでいた自宅は東京大空襲で焼けていた。自宅に残した雛人形を見つけ、母が「お雛さんが身代わりになってくれたんだね」と言っていたことが今でも記憶に残る。無事に家族6人で戻ってこれたことに安堵した。「自分は本当に幸せな方だった」と振り返る。「戦争は2度と起こしてはいけない。少しづつ薄れかけている中で戦争の怖さを息子や孫に、そして若い世代が受け継いでほしい」と語る。
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