終戦から74年が経つ。十日市場町に住む加藤昌子さん(90)は、戦争が激しさを増すと、学校にも行けず、勤労奉仕の日々を送った。「戦争は絶対にしてはいけない」と語気を強める加藤さんに話を聞いた。
戦争が激しさを増したのは、加藤さんが15歳の頃。学校に行くこともできず、菊名(港北区)にあった軍事工場で魚雷づくりを行う日々を送っていたという。「会話をすることは一切許されず、朝から晩まで国のために働いた。勉強の話も一切できる雰囲気ではなかった」と振り返った。「神風」と書かれた鉢巻きを付け、女性も軍服を着て、全員が勤労奉仕を行っていた時代だった。
恐ろしい記憶
その後、当時実家のあった三保町で農家を手伝っていたという加藤さん。母親と農作業をしていると、「ヒュー」という音とともに、突然米軍機が現れ、慌てて逃げる2人に向けて射撃。必死の思いで用水路に逃げ込み、なんとか生き延びることができた。「警報も鳴らず、突然の出来事。本当に恐ろしかった」と声を震わせた。
夜には、毎晩のように空襲警報が鳴り響いた。そのたびに、急いで防空壕へと逃げ込んだという。「ぐっすり眠れた記憶はない。いつも怯えながら夜を迎えた」と加藤さんは振り返った。
農家にもかかわらず、「白いご飯など食べたことはない。みんな、兵隊さんのために持っていかれたからね」。リンゴの皮や大根の葉など食べられるものはなんでも食べて飢えをしのいでいた。
平和を切に願う
「自身の戦争体験を伝えてほしい」と新治小学校で児童に向けて話したこともある加藤さん。「”学べず、眠れず、食べられない日々”だったね。今の児童が当たり前に学んだりできることをうらやましく思う。平和であるということが、どんなに幸せなことなのか。戦争は絶対にいけない。平和な日本が続くように、戦争を知らない世代も知る努力をしてほしい」と率直な思いを述べた。
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