東京五輪で技術委員として、野球の運営全般に深く携わった 麻生 紘二さん 霧が丘在住 78歳
努力怠らず、人を支える
○…試合前の練習からセレモニー、本番まで、各国の選手が全力を出し切れるように運営全般に尽力。「大きなトラブルもなく、無事に運営を終えられた」と喜びを噛みしめ、「自国開催の五輪に関われた。こんな幸せなことはない」と相好を崩す。日本対アメリカの決勝戦の試合運営も担当。目の前で日本の金メダルが決まった瞬間は強く目に焼き付く。今回の五輪で、長年携わった野球の世界から引退した。「自分にとっても、最後の舞台が東京五輪。すべてやり切った」
○…東京六大学野球に憧れ、神宮球場の土を踏んだ。集中して効率的に練習を重ねた東京大学野球部時代。「厳しい練習だったが、勝った時の喜びは今も記憶に残る」と振り返る。世話になった大学時代の監督から「東京六大学野球の審判をやらないか」と声がかかったのは、卒業して3年が経ったころだった。「恩返しがしたい」と快く引き受けたという。
○…平日は損害保険会社で働き、土日は審判を行う生活を約20年間。「会社や家族の理解があったからこそ、続けられた」と感謝を口にする。仕事も人一倍努力を重ね、専務にまで就いた。「野球を愛し、仕事を愛した人生だったよ」。2001年には、日本アマチュア野球規則委員会の委員長に就任。後進育成などに力を入れてきたほか、北京五輪などの様々な国際大会の運営にも携わってきた。
○…野球の世界を離れ「今後は地域活動と趣味の野菜作りに力を入れたい」とにこり。霧が丘でのバザール運営など、すでに地域に深く関わっている様子。「自分は裏方があっている性格。地域を盛り上げるためにサポートをしていけたら」と意気込む。地域へ活躍の場を変え、たゆまぬ努力を続けていくようだ。
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