終戦から73年―。中国でその日を迎えた吉田昌美さん(86歳・竹山在住)。「厳しい戦争中も中国人に支えられた」と当時を思い出す。日中の架け橋となる活動にも奔走した吉田さんに話を聞いた。
吉田さんは、1932年に北海道旭川市で生まれた。父が貿易関係の仕事をしており、6歳の時、日本の勢力下だった中国の漢口(はんこう)へ家族で移り住んだ。父の経営する会社では、1000人以上の中国人を雇用しており、幼少期は、日本語より中国語が身近だったという。
また、日頃から中国人と遊ぶなど、良好な関係を築いていた。「私達家族は、本当に多くの中国人にお世話になった。父の会社も、勤勉でしっかりと働く中国人のおかげで成長できた。交流も盛んだった。確かに、国同士は戦争をしていた。でも、現地では、一人ひとり繋がっていたと思う。現地の楽しい思い出も多い」と振り返った。
漢口周辺では、吉田さんが10歳頃までは空襲もなく、穏やかな日々だったという。
空襲と姉の死
1943年頃から、米軍などの連合国軍による空襲が始まった。すると、日常の景色は一変。通学路には、爆弾による大きな穴がいくつも空いた。多くの空襲は夜間。朝、道に死体が溢れ、建物の壁に人の肉片が付着していた記憶は今も鮮明に残る。「終戦間際には、空が敵の飛行機で埋め尽くされた。あんなに恐ろしかった日々はない」と話した。
戦争が激化する中で、多くの傷病兵が病院へ運ばれた。当時病院には、「輸血奉仕隊」の名のもとに学校、地域団体から献血者が集められていた。健康だった吉田さんの姉も参加。しかし、輸血量が多く、17歳という若さでこの世を去ってしまう。父は、娘の悲惨な終末に狂乱。日本刀を振りかざして自室のあらゆる物を打ち切った。吉田さんは「病院などを訴えることはできなかった。戦争で負けるかもしれない。訴えるなど、到底できる状況ではない。家族にとって、悲しすぎる戦争体験だ」と声を詰まらせた。
無言で示した感謝
終戦を迎え、日本人は一カ所に集められた。帰国のため、約1年間、乗船の順番を待つ日々。
そして、船出の日。金品や荷物は持っていくことはできず。捨てられる物目当てに、船乗り場には多くの中国人が集まっていた。人混みの中に見えたのは、必死に会社のために働き、家族同然のように親しかった中国人リョウさんの姿。彼の視線は、明らかに荷物ではなく、日本人を探していた。「1年間、朝から晩までずっと私達家族の船出を待ってくれていた。感謝を伝えたかった。だが、日本人と中国人、言葉を交わすことは許されなかった」。すれ違う瞬間、父は、手持ちのお金をリョウさんの足元に投げ、感謝を無言で示したという。
日中の架け橋に
日本へ帰国後、弟らが中心となり、中国人留学生の受け入れ支援をスタート。「お世話になった国に何かしたい」。そんな思いで約20年続けた功績が認められ、中国に国賓として招待された。観光名所を巡るなど手厚いもてなしを受けた。「絶対に悲惨な戦争を繰り返してはいけない。国が違っても、必ず、分かり合えるから」と語気を強めた。
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